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大條宗直(大條家第七世)【下】

前半はこちらをご覧ください。

独眼竜の異名をもつ伊達家第十七世 伊達政宗と時代を共にしたことで、大條家の中でトップクラスの知名度でありながら、最も苦難に満ちた波乱の人生を歩んだ大條家第七世 大條宗直について記載いたします(後編)

天正十八年(1590年)六月九日、主君の伊達政宗は小田原で関白 豊臣秀吉へ謁見し、遅参の許しをもらうことができました。伊達政宗は会津黒川城へ帰還の三日前(六月二十二日)に大條宗直へ手紙を出しております。
(『貞山公治家記録 巻之十三』 )
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中大・前次所へ之書札、
於鹿沼披見、祝着ニ候、
殊記念訖被遣念候、大慶ニ候
(中略)
会津之事ハ、先々  関白様御蔵所ニ被定置、
果候而ハ手前可被相返之理候、
又奥州出羽之事、皆以可為下知由、
被 仰出候、
廿五日ニハ黒河訖下向有之候、
此由各々伝達任入候、
恐々謹言、

六月廿ニ日 政宗御書判

大尾
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(仙台市史 資料編10「大条尾張守宛書状」)

※筆者は現代語訳ができず、どなかたご教示いただけますと幸いです。

この手紙を受領し、まずは伊達家取り潰しの危機を回避することができて、大條宗直は安堵したものと思われます。しかし、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、ここから波乱の人生が始まります。

天正十九年(1591年)伊達政宗は大崎・葛西一揆を扇動しているとの謀反の嫌疑をかけられました。
あの有名な「鶺鴒の花押」で何とか切り抜けた政宗でしたが、そのペナルティとして本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡を召し上げられしまいます。その代わりに一揆で荒廃しきった大崎・葛西の13郡を与えられ、米沢城72万石から岩出山城58万石へ減転封されてしまいます。

これにより大條宗直は、大條家第一世大條宗行から代々受け継がれ、176年に渡り守られてきた伊達郡大枝の領地を失うことになりました。
伊達郡大枝邑は大條家発祥の地であり、先祖伝来の領地として大條家にとって大きな大きなアイデンティティであったと思われます。そんな重大な局面を当主として迎えることになった大條宗直の心中察するに余りあります。

大枝城跡(別名 袖ヶ崎城)
第一世 宗行から第七世 宗直までの居城
伊達郡伊達市公式HPより

ここからの大條家の動きについて「大條家略譜」にはこのように記載されております。
「天正十九年大條館より伊具郡大蔵邑に移住す。文禄元年又移りて名取郡北目に住す」
※天正十九年=1591年、文禄元年=1592年

すなわち1591年に大枝邑から十数キロ先にある山間の小さな大蔵邑へ移り、翌年に名取郡北目へ再度移住をしております。立ち退き期限が迫る中での慌ただしい様子が窺い知れます。

Google Mapsより(一部加筆)

名取郡北目への移住と前後し、豊臣秀吉の命令を受けて、伊達政宗と共に文禄の役へ向かいました。
伊達政宗は正月早々に3000の兵を引き連れて岩出山城を出立し、ニ月十三日に入京。三月十七日に京都を出発し、肥前名護屋城を目指しました。その際の伊達勢の派手で綺羅びやかな軍装に京の人々は大きく盛り上がり、それが今で言う「伊達者」の語源になっていると言われております。
※このエピソードに関しては書籍や他のサイトに多くの情報がございますので是非ご覧になってみてください。

こんな一世一代の大舞台に我らの大條宗直も参列しておりました。
二年前に先祖伝来の土地を召し上げられ、縁もゆかりもない名取郡北目へ緊急移住させられ、(きっと)不安やストレスに押し潰されそうであった大條宗直ですが、この京都人(みやこびと)の割れんばかりの大喝采に少しは気が晴れたことでしょう。
文禄の役では伊達勢は予備軍であった為、肥前名護屋の本営でしばらく待機した後、文禄ニ年(1593年)四月に海を渡り、豊臣秀吉からの帰還命令によって、九月半ばに京都へ戻っております。
大條宗直は大阪に凱旋した後、そのまま伏見留守居役を命じられ文禄ニ年(1593年)から文禄五年(1596年)までの三年間、京都に滞在していたようです。
しかしそんな中、文禄二年(1593年)志田郡蟻ケ袋という場所へまたもや処替を命じられます。大阪に凱旋し、伏見留守居役を命じられる前後のタイミングであったと思われます。

Google Mapsより(一部加筆)

まだまだ伊達家家中の混乱が収まっていないことが窺い知れます。
繰り返しとなりますが、176年守ってきた先祖伝来の領地を豊臣秀吉に召し上げられ、二年で三回の処替を命じられ、大條宗直はこの時どんな心境だったでしょうか。上方の最先端カルチャーに触れ、少しでも気が紛れていたら良いのですが、きっと苦々しく思っていたに違いありません。

しかしこの伏見留守居役の間、大條宗直は政宗の武闘軍団の一人として、天下人 豊臣秀吉からも可愛がられたと伝わっております。
(平成十七年 十月 坂元公民館で行われた、大條家第二十世 伊達宗行氏の講演 「大條・伊達と山元町」より )

そして文禄四年(1595年)、豊臣秀次事件で政宗の関与が疑われた際に、当時19人の伊達家重臣が連判起請文を提出し豊臣氏への忠誠を誓いますが、この起請文に大條宗直の名前を見ることができます。 
(『貞山公治家記録 巻之十九』 )

起請文には石川義宗、伊達成実、伊達政景、亘理重宗、伊達盛重という一門衆に続いて、2番目(全体で7番目)に大條宗直の名前があり、引き続き重臣として活躍してることがよく分かります。

時は下り、慶長五年(1600年)、伊達政宗は徳川家康から「百万石のお墨付き」を得て、奥州・出羽で西軍の上杉景勝軍と合戦を繰り広げます。
その最中、伊達軍は失地回復を狙い、旧領伊達郡の梁川城を攻めました。(梁川・松川の合戦)
慶長五年(1600年)伊達政宗軍は伊達郡に侵入し、伊達軍の高野行衛が大枝城(大條家が176年間居住した城)を攻めました。
伊達軍はいったん大枝城を占拠するも、間もなく梁川城の上杉勢に奪還され、残念ながらこの合戦に敗北しております。

詳しい配置は分かっておりませんが、この一連の戦には大條宗直も参戦しておりました。
慶長五年(1600年)十月九日に、大條宗直は桑折点了斎、白石宗実と連名で、伊達政宗から書状を受け取っています。
(『貞山公治家記録 巻之二十下』)

桑折点了斎宗長ほかニ名宛宛書状
(仙台市史 資料編11より)

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今度之動、仕合能満足ニ候、
今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ候條、能候ト存候
(中略)

十月九日
政宗

点了斎、白石、大尾
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伊達郡・大枝を知り尽くしている大條宗直が参戦するのは当然のことでした。恐らく、旧領民に対する調略などでも宗直が動いていたと思われますが。しかし、ここで問題なのがその戦に敗北してしまったということです。
大條宗直は先祖伝来の地を取り返す千載一遇のチャンスを掴むことができませんでした。

仮にここで伊達家が伊達郡を取り返すことができていれば、徳川家康も「伊達郡」を返還せざるを得なかったと思われます。
現に伊達家が自力で取り返した刈田郡は、加増されております。
しかしこの敗戦もあってか、徳川家康の「百万石のお墨付き」は刈田を除いて全て反故にされてしまいました。

大條宗直はこの梁川・大枝の負け戦から五年間蟻ケ袋に留め置かれている上に、その後(慶長九年)は北の最果てにある気仙郡長部へ飛ばされていることからも、伊達政宗はこの敗戦に落胆し、手厳しい人事考課を下したものと考えられます。

Google Mapsより(一部加筆)

ちなみに弟の大條実頼は慶長三年(1598年)に伊達郡にほど近い伊具郡丸森の地を賜っております。
この頃の大條実頼の活躍は目覚ましく、存在感では兄宗直を大きく上回っています。大條家では珍しい分家を認められたのも、この大條実頼の功績あってのことでした。(詳しくは大條実頼の記事に記載します)

大條宗直の話に戻りますと前述の通り、
慶長九年(1604年)八月二十八日 気仙郡の内今泉、長部、竹駒、坪、高田、広田等に二千石を拝領します。
(この時に伊達政宗から拝領した黒印状は『晴宗公采地下賜録』と繋ぎ合わせ、木箱に収められ現代まで大切に保管されてきたようです)
これが大條宗直にとって最後の処替となりました。

長部村の二日市城に居住し、すぐに今泉足軽組を編成するなど精力的な治世が見られます。
「小泉家文書」では「慶長九年より大條尾張殿為館主同年南部御境〆之為御足軽五十五人御取立罷成直々山田出雲指引被仰付候」と記されており、慶長年間に足軽五十五人が配置され、二日市城北麓、田の浜の地に足軽屋敷を構え、南部藩境警備にあたりました。

その後、慶長十五年(1610年)七月十日に戦国の動乱に翻弄され続けた人生に幕を下ろしました。

伊達治家記録や伊達天正日記でも「大條殿」と敬称つけて記載されるなど伊達家の中で一段高い扱いを受け、真面目で実直な人柄(予想)もあって主君である伊達政宗から大きな信頼を得ていたものと思われます。
しかし、生まれてきた時代が少し早かったかもしれません。日本の歴史の中で圧倒的にタレント揃いの戦国時代の真っ只中では、アピール下手な大條宗直は今ひとつ輝くことができませんでした。
しかしその真面目で実直な人柄だったからこそ、戦乱の世の中でもしっかり大條の家名を守り抜き、次世代につなげることが出来たのだと筆者は感じでおります。

◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
平重道 「伊達治家記録」1973年
陸前高田市史編集委員会 「陸前高田市史」1995年
野本禎司氏「古文書が語る東北の江戸時代」2020年
仙台市史編さん委員会「仙台市史 資料編 10」2005年
仙台市史編さん委員会「仙台市史 資料編 11」2005年


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