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大條実頼(着座大條家第一世)【上】

着座大條家第一世 大條実頼

通称:越前、薩摩
生誕:弘治ニ年(1556年)
死没:寛永元年(1624年)八月九日
諡名:大安院殿国山英公居士
父母: 大條宗家(大條家第六世)、小梁川親宗の娘
兄弟: 女(伊達鉄斎夫人)、大條宗直(大條家第七世)
妻:中山大蔵の娘、藤沢近江の娘
子供:大條元頼(着座大條家第二世)、大窪元成(大窪家養子)、大條頼廣(平士大條家第一世)、女(黒木正三夫人)、女(高屋快庵宗伯夫人)、大條宗頼(大條家第九世)

兄である大條宗直と共に、伊達家第十七世 伊達政宗へ仕え、大條家歴代の中でトップクラスの有能さを遺憾なく発揮したことで、大條家として初の分家を立ち上げ、以降の大條家に絶大な影響力を残している大條実頼について記載いたします(前半)

「伊達家臣二十四将図」
(涌谷町教育委員会 / KKベストセラーズ「歴史人」
平成27年12月6日発行・発売より)

大條実頼は大條家にとって初づくしの人物であります。まずは上記の肖像画となります。こちらは明治14年(1881年)に書かれたものとのことですが、大條家にとって現存する初の肖像画となります(恐らく)
明治に書かれたものではありますが、なかなか肖像画に恵まれていなかった大條家末裔にとっては、非常に貴重な史料と言えます。

そんな大條実頼は弘治ニ年(1556年)に誕生しました。母親は兄宗直と同じく「小梁川親宗の娘」と思われ、これまでの当主の中で初めて生誕年が判明しております。

そして大條実頼は当初、伊達家の宿敵である蘆名家に属しておりました。これは決して伊達家に反旗を翻したというわけではなく、蘆名盛興(蘆名家第十七世)へ嫁いだ彦姫(伊達政宗の叔母)へ随従する形で、蘆名家へ入っております。彦姫の輿入れ時、大條実頼は11歳でした。

一説では彦姫が死去した天正十六年(1588年)五月十一日以降に伊達家へ帰参したとなっておりますが、「貞山公治家記録」や「伊達天正日記」ではその前から伊達家の中で名前を見ることができます。

大條実頼の名前が初登場するのは天正十五年(1587年)九月二十六日です。この日の夜に伊達政宗から御茶を賜ったことが記録に残っております。
場所は米沢城に新造した御数寄屋(6日前に落成)で、藤田七郎晴親と 三坂越前守隆次も同席しておりました。これは「貞山公治家記録」、「伊達天正日記」の両方に記載されております。
※ちなみにこの年に長男の元頼(着座大條家第ニ世)が誕生してます。

次の登場はそこから少し空いて、天正十六年(1588年)の三月二十三日、遠藤将監と共に葛西への使者の任務を終えて米沢へ帰ってきております。

やはり大條実頼の伊達家への帰参は彦姫の死去より少し早そうです。早ければ天正十五年(1587年)の秋、遅くとも天正十六年(1588年)の初頭には伊達家に帰参していたものと思われます。そして帰参してまもなく伊達政宗から大條家の分家を認められ、452石を拝領し別家を立てております。
これまで分家どころか兄弟の形跡も残っていなかった大條家ですが、このスピード立家には驚くばかりです。
ここから大條実頼は怒涛の勢いで伊達家の史料に登場します。
※下記は「貞山公治家記録」と「伊達天正日記」から一部を抜粋してます。

■天正十六年(1588年)
04/05:伊達政宗へ黄若鷹を献上
04/09:伊達政宗から朝ごはんをご馳走になる
04/20:葛西への使者
05/13:田村への使者
05/16:大崎から戻る
07/17:政宗と相撲を取って投げ飛ばす
07/30:伊達政宗と鉄砲を楽しむ
09/30:伊達政宗へ肴を献上
10/21:伊達政宗へ肴を献上
11/10:兄(大條宗直)と共に茶会へ誘われる
11/13:政宗の代理で葛西家へ葦毛の馬を献上する

■天正十七年(1589年)
03/04:葛西から帰る
05/27:伊達政宗へ亀(亀の甲)を献上
07/27:藤山(二本松城)への使者
08/09:葛西へ伊達政宗の返書を渡す

天正十六年七月なんて、伊達政宗が貰った鮭をご馳走してくれたり、一緒に鉄砲したり、相撲観戦してたらテンション上がって実際に相撲を取っちゃったり、商人が持ってきた具足を鑑賞したり、和歌の練習をしたり、来客との会食に相伴したりと、大袈裟でなく週3ペースで伊達政宗と楽しく遊んでおります。
主君である伊達政宗と相撲を取った際、接待相撲をせず、敢えて投げ飛ばしてしまうところも、大條実頼の高いコミュ力が窺い知れます。

伊達政宗は兄の大條宗直には、伊達家から分家した重臣として丁重に扱っている様子でしたが、弟の大條実頼へは大きく異なっております。この当時(天正十六年)伊達政宗は22歳で大條実頼は33歳。片倉小十郎とほぼ同年齢の大條実頼は、政宗にとって人生経験豊富な先輩であり、気心知れた友人のような存在だったのでしょう。

そしてここ数年の大條実頼の行動を見てみると、葛西家に対する任務が多いことが分かります。帰参していきなり任されるようになった可能性もありますが、もしかしたら蘆名家時代に葛西家との何らかのコネクションを築いていたのかもしれません。(ちなみに天正十六年の四月五日に政宗へ献上した黄若鷹は葛西地方が代表的な産地のようです)
どちらにせよ大條実頼は高い外交力も評価されていたというのは間違いないと思われます。

なお、天正十七年(1589年)七月十七日に行われた「摺上原の戦い」に、大條実頼が参戦していたかどうかは記録に残っておりません。
この戦で伊達政宗は蘆名義広軍に勝利し、南奥州の覇権を確立しましたが、蘆名家の内情に精通している大條実頼の貢献も大きかったものと思われます。悲願であった南奥州を平定し、意気揚々と蘆名家の居城であった会津黒川城に入った伊達政宗ですが、ここから豊臣秀吉という強大な相手が伊達家の前に立ち塞がります。

天正十五~十六年は近隣諸国との小競り合いはありながらも、「貞山公治家記録」と「伊達天正日記」からは和気藹々とリラックした伊達家の雰囲気が伝わってきますが、天正十七年(1589年)から徐々に物々しい空気になり、天正十八年(1590年)の小田原参陣・奥州仕置から大きく伊達家中の空気感が変わってきます。
そんな中、大條実頼がどのように大條の家名を守り、そして未来を切り拓いていったのかについては、次回に記載いたします。

◼️参考資料
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
人物往来社「戦国史料叢書 第2期 第11」 1967年
平重道 「伊達治家記録」1973年
歴史図書社「仙台藩家臣録 第1巻」 1978年
KKベストセラーズ「歴史人 通巻61号」2015年12月6日
南奥羽戦国史研究会 編「伊達天正日記天正十五年」 2018年

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