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大條実頼(着座大條家第一世)【中】

前半はこちらをご覧ください。

兄である大條宗直と共に、伊達家第十七世 伊達政宗へ仕え、大條家歴代の中でトップクラスの有能さを遺憾なく発揮したことで、大條家として初の分家を立ち上げ、以降の大條家に絶大な影響力を残している大條実頼について記載いたします(中編)

天正十八年(1590年)六月九日、主君の伊達政宗は小田原で関白 豊臣秀吉へ謁見し、遅参の許しをもらうことができましたが、ここから伊達家にとって苦難の連続となります。

豊臣秀吉の奥州仕置きにより、小田原参陣をしなかった葛西晴信と大崎義隆が改易となり、両氏の旧領であった十三郡には木村吉清が新領主として配されました。
【上】に記載の通り、葛西、大崎といえば大條実頼が使者として頻繁に訪れていた地です。しかし、木村吉清は旧葛西・大崎の家臣を冷遇し、また木村家譜代の家臣の乱暴狼藉などが相次ぎ、その悪政に苦しんだ旧臣、領民が大規模な一揆を起こしました。(葛西大崎一揆)
奥州仕置が完了し、京へ帰還途中であった浅野長政は白河城でこの報へ接し、一揆鎮圧と木村吉清親子の救出を伊達政宗と蒲生氏郷に命じます。しかしここで大きな問題が発生します。

伊達・蒲生共同の一揆鎮圧作戦の前日である、天正十八年(1590年)十一月十五日に伊達家家臣である須田伯耆が蒲生氏郷へこの一揆は裏で伊達政宗が扇動していると密告を行いました。
蒲生氏郷はすぐに豊臣秀吉へこの件を伝え、滞在していた名生城の防御を固め、城に籠もり伊達政宗を警戒します。
その後も警戒を解くことはなく、天正十九年(1591年)正月に伊達家からのニ名の人質(伊達成実、国分盛重)を条件に、やっと名生城を出立し、会津若松城へ帰還します。
この伊達家最大の危機と言える状況下に、なんと大條実頼は大崎へ派遣され、名生城に籠城する蒲生氏郷との折衝を行っておりました。

この時期の書状が複数残されております。
①蒲生氏郷 → 大條実頼(十二月六日)
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両人マテノ御礼、披見申候、
政宗御心深對ニ、上意無御別義候由、
(中略)
返々、今以氏郷心中者別儀無之候、
下々之口ヲカシク候、筑後殿へも御意得頼申候、
御両任御迷惑察申候、以上、

忠三
十二月六日
氏郷御判

大枝越前守殿
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(『貞山公治家記録 巻之十五』 )

戦国大名である蒲生氏郷から直接手紙をもらってしまってます。
この時点では蘆名家から帰参して僅か三年余りでこの重責を担っております。筆写は現代語訳ができないのですが、
「伊達政宗を疑ってないよ、信頼しているよ」という内容とのことです。
といいながらこの時点の蒲生氏郷は思いっきり名生城に籠城してますけどね。

ニ通目の書状はこちらです。
②伊達政宗 → 大條実頼(十二月六日)
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其の後みやうのやうたひ無心元候、
此返事ニ待入候、
(中略)
かたりたき事、うみ山ニ /\ /\ /\、
めつらしき事候ハ、自是可相理候、
謹言、

十二月十二日
政宗御判

大越
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(仙台市史 資料編10「(794)大条越前守宛書状」)

X(旧Twitter)に本書状の現代語訳をしてくださっている方がいらっしゃいましたので、是非そちらをご覧になってみてください。
(大変素晴らしい現代語訳でございました)
「かたりたき事、うみ山ニ /\ /\ /\」と、伊達政宗×大條実頼の絶大なる信頼関係が伺える内容となっております。
※ニュアンスだけお伝えしますと、「蒲生氏郷が籠城し、この状況に伊達勢は疲弊しきっており無念・・。大條さんと喋りたいことは海山のようにあるよ!!何か動きがあればまた連絡しますね!」というような内容です。

そして三通目の書状はこちらです。
伊達政宗 → 大條実頼(天正十九正月十日)
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新年之吉慶、珍重ニ候、仍、其地ニ久々、
在留、大義、殊、徒然察入候、八幡々々、
(中略)
上洛之事を、必々
弾正殿さひそくあるへきもやうに候ける、
□ かるときハ、おく口ニこりむすひ候事、
先々能候、其内、かみのとなへ、是非共ニ、
可相聞候間、何篇輒候、とても/\
近日中、其口へ相下事ニ候間、
其まゝ滞留、尤ニ候、恐々謹言

正月十一日
政宗御判

大越
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(市史せんだい vol24「大条越前守実頼宛書状」)

こちらも②と同じ方がX(旧Twitter)で現代語訳をしてくださっているので、是非そちらをご覧になってみてください。こちらも大変素晴らしい現代語訳でございました。

※ニュアンスだけお伝えしますと、「あけましておめでとう。大崎に長く滞在してくれていて感謝です。(中略)浅野弾正が上洛を催促してくる様子なので近々で上洛することになりそう・・何かと相談したいからその時は近くにいるように頼みます。近日中に上洛の連絡があると思うので、もう少しそのまま大崎に留まってて」という感じです。

上述の通り、蒲生氏郷は伊達成実、国分盛重を人質に正月一日に会津若松城へ戻ってますが、大條実頼は引き続き名生城周辺に滞留していたようです。

ここからは推測ですが、伊達政宗が一揆を扇動していた場合、大條実頼は旧大崎・葛西の家臣へ口裏合わせなどの工作をしていたのかもしれません。
ここでも大條実頼の大崎・葛西とのコネクション、そして高い外交力が存分に生かされたことでしょう。
ちなみに伊達政宗が一揆を扇動した理由として、木村吉清を失脚させ自身の領土を拡大させようとしたとも、木村吉清による乱暴狼藉に苦しむ大崎・葛西の領民に対する義侠心からの行動とも言われております。

少なくとも旧同盟国である大崎・葛西の現状を見過ごすことができなかったのでしょう。葛西(大崎)へ幾多の使者を努めた、大條実頼も同じ考えであったと思われます。

なお余談ですが、大條実頼は生涯ニ名の正室を娶っていますが、二人目の妻である「藤沢近江の娘」の父藤沢近江は葛西衆とのことです。
ちなみに一人目の妻である「中山大蔵の娘」の父中山大蔵は会津(蘆名)衆とのことで、蘆名家に仕えていた時に娶っております(長男 元頼の生まれから逆算)
この「中山大蔵の娘」とは離縁したのか死別をしたのかは不明ですが、その後葛西衆である「藤沢近江の娘」と再婚をしております。
ここからも分かる通り、大條実頼と葛西家のリレーションは非常に強固なものであったと思われます。
もしかしたら伊達政宗の一揆扇動が露呈した後に大崎入り(火消し活動)をしたわけでなく、伊達政宗の命を受けて、大條実頼自身も一揆扇動の工作をしていたということも考えられますね。

そして天正十九年(1591年)一月、豊臣秀吉から喚問された伊達政宗は上洛をして一揆扇動(疑惑)の申し開きを行います。
これは伊達政宗にとっても初の上洛となりましたが、当然大條実頼も上洛に随行をしております。

上洛供衆注文(仙台市博物館蔵)
KKベストセラーズ「歴史人」 平成27年12月6日発行・発売より
(6番目に「大條越前守」の名前があります)

138人の大所帯で上洛を果たしたとのことですが、大條実頼はこの6番目に名前が記されいることからも、すでにこの時点で伊達家重臣の立場を掴んでいることが分かります。僅か3年前に齢30を超えて伊達家に帰参した人間とは思えないほどのスピード出世と言えるでしょう。

この上洛ではあの有名な「鶺鴒の花押」で最悪な結末を回避した伊達政宗ですが、この騒動のペナルティとして本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡を召し上げられ、その代わりに一揆で荒廃しきった大崎・葛西の13郡を与えられて、米沢城72万石から岩出山城58万石へ減転封されてしまいます。

これにより兄である大條宗直は、大條家第一世大條宗行から代々受け継がれ、176年に渡り守られてきた伊達郡大枝の領地を失うことになりました。
(兄宗直に関してはこちらをご覧ください)

そして翌年の文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の命令を受けて、伊達政宗と共に「文禄の役」へ向かいました。
この文禄の役は兄の大條宗直が随行していたことはよく知られておりますが、なんと弟の大條実頼も随行しておりました。

『貞山公治家記録 巻之十八上』より

約120名ほどの軍勢の中、大條宗直は7番目、大條実頼は15番目に名前が記されております。そしてなによりも大條兄弟が揃い踏みするこの光景はなんともエモいですね。記録としては天正十六年十一月に伊達政宗から御茶を賜った時以来の兄弟共演です。

ちなみに大條実頼はこれまで通称「越前」でしたが、ここが後年の通称である「薩摩」の初出となります。

戦国時代も佳境に差し掛かり、大條実頼の活躍もますます加速していきます。続きは次回に記載いたします。

◼️参考資料
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
人物往来社「戦国史料叢書 第2期 第11」 1967年
平重道 「伊達治家記録」1973年
歴史図書社「仙台藩家臣録 第1巻」 1978年
仙台市史編さん委員会「仙台市史 資料編 10」2005年
仙台市博物館/編「市史せんだい vol24」2014年
KKベストセラーズ「歴史人 通巻61号」2015年12月6日

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