見出し画像

大枝から大條へ

※今回の記事の大枠は、大條家第二十世 伊達宗行氏が昭和63年に発行(非売品)された、「翠雨山房夜話(上)」から引用・出典させていただいております。

大條家末裔にとって大條一族はいつから大枝→大條へと字を改めたのかというのはとても大きな関心事です。
その謎を伊達宗行さんは「完全な史実ではない」「筆者の推測が入ってる」と断りながら、下記のように記されております。

-------
・初めから大條村があって大條姓が出来て、後に村名が大枝になった説もあるが恐らく異なる。
・最初にあったのは大枝で、ある時誰かが大條にした。
・その人は第六世 大條宗家と思われる。

天文16年 8月13日と日付のある「大枝稙景他五名連署証状」(国見町史二巻)の署名を見ると、大枝稙景(花押)となっていてまだ枝が使われている。

大枝稙景 花押(大枝稙景他五名連署証状より)

しかしその29年後の「天正4年輝宗公相馬御陣着例」(三春町史)を見ると、『大条殿五騎』と、ここでは大條になっている。この約30年間の大半は大條宗家が当主である。ここで改めて記載すると、大條宗家は留守家からの養子。この時代の留守家の当主は留守景宗で実はこの人物は、伊達尚宗の三男、つまり稙宗の弟であり、その留守景宗の二男(稙宗の甥、晴宗の従兄弟)が大條家を継いだ。なお、大條宗家の義理の父、大條家第五世 大條宗助が隠居したのが天文22年(1553年)である為、ここで大條宗家が大條第六世になった。これが謎の30年の中で唯一の大條家の世代交代であった。大條宗家は留守家出身の冷静な目でこのチャンスを捉えて、枝から條への転換を計ったのではないか。この時代は伊達晴宗より西根大枝岡の郷などが改めて与えられている。大條家一世から五世までの領地に関する情報は残されていないが、大條宗家は確実に大枝の地を確保し、そして大條家歴代の正室、側室の名前が列記されるようになったのも大條宗家からである。記録も含めて大條宗家以降は明らかに整備が進んだ。前出の大枝稙景は大條宗家の旧名であると考えられる。恐らく初めは留守稙景(父と伯父の名の組み合わせ)で、大枝家の養子となり、当初は大枝稙景と名乗り、チャンスを見て大條宗家と改名した、というのが私説である。
-------
と伊達宗行さんは自著で記しております。筆者(私)はこの説を見て目から鱗が落ちました。約25年前に独学で大條家の調査を開始し始めた時、「稙景って誰だ…(歴代当主に名前がない)」、「そもそもいつから大條になったんだ??」と混乱していた筆者にとって、あらゆる疑問を解消することが出来た名著、それが「翠雨山房夜話(上)」でございます。

なお、「翠雨山房夜話(上)」の著者であり、大條家第二十世 当主伊達宗行さんは2023年2月27日に93歳でお亡くなりになられました。
直接お目にかかれたことはありませんが、NHK ファミリーヒストリーの「伊達みきお(サンドウィッチマン) 〜伊達の名に誓った覚悟とは〜」での気品がある柔和なお姿がとても印象的でございました。
また伊達宗行さんは本業では物理学の権威であり、大阪大学名誉教授、日本物理学会会長、日本原子力研究所先端基礎研究センター長などを歴任されたお方でありました。
ここに謹んでお悔やみ申し上げ、故人の安らかなるご冥福を心よりお祈り致します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?