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【エッセイ】理解するという概念〜分かったつもりの正体〜

「自分の思想というものを所有したくなければ,ただちに本を読むことである」by ショウペンハウアー

「自分の思想というものを所有しないための唯一の方法は何も分からないままで居続けることだろう」by eNa

 夢から目覚める夢から目覚めた直後に夢か現実かの区別ができないと感じるように、確信していた自分の解釈の間違いに気づいた時、そこでの新たな理解も正しい保証などないと感じる。自身の世界観を形成しているあらゆるものの解釈において、その変更を迫られる可能性は常にあり続けるといえるのだ。

 これは「理解するとは何か」という問題であるが、戦前戦後の思想の切断はこの問題を示す良い例となる。戦中に京都大学の哲学教授であった田辺元は、戦争遂行に大きな影響を与えたとされる「種の論理」を著したが、終戦と同時に自身がばらばらに壊れるのに気付いたという。つまり自動的に思想の転換が生じたのであり、「心弱き私が(厳しい思想統制に)なんら抵抗すること能わず、時世の風潮に支配せられざるを得なかったのは、いかに深く自らを恥ずるもなお足らざる所である」と告白した。また詩人であり評論家の吉本隆明も田辺とまったく同様の経験、つまり自身が全身全霊を挙げて納得したと思った皇国思想が終戦により誤りであると気付いた経験から、思想の普遍性ということについて論考するようになったという。このように、人はなぜ後で間違いであると分かるようなことを、それまで理解したものと考えて納得してしまえるのか。

 このことについて考えるのに参考となると思われるのが,社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが述べたという「人間の精神には秩序を求める性質がある」という人間精神の分析である。何ら実際的な効用を持たない周囲のものにも、人は特定の位置と機能と意味を割り当て、意識にのぼるすべてのものを安全で再発見可能な場所に据え付けようとする傾向があるという。例としてエドワード・W・サイードが著した「オリエンタリズム」では、この人間精神の性質により西洋による東洋の誤ったイメージが作り出されたとしている。つまり、西洋にとってかつての東洋は曖昧で未知な実体だったのであり、「人間精神はこうした異質で曖昧な未知の実体を、一定のイメージや図式・語彙などによって表象することで馴化し、自己に把握可能なものにしようとする傾向を持つ」ためになされたことだとしている。そしてこの人間精神の性質から,理解するとは何かを定義できる可能性があり、理論物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルグが自伝である「部分と全体」に記した,物理学者のヴォルフガング・パウリによる「”理解する・わかる”というのは、それを使ってたくさんの現象を統一的、相互関連的に認識できるような表象や概念を所有すること、つまり”把握”できることだ。外見的にはこんがらがったある種の状態が、何かもっと一般的なものの中の特殊な場合に過ぎないものとして、より簡明に表現することができることを認識したときに、我々の思考は安心するのだ」という発言がそれをよく説明していると思われる。

 アモルファス物質が安定には存在できずに結晶化するように、ものは不安定な状態で世界に存在し続けることはできないが、人にとって分からないという状態は精神的に不安定な状態であり、同様に人間の精神も安定化を求めて分からない状態を解消しようとするのではないか。問題は上述のオリエンタリズムが示すように、この時になされる自身にとって把握可能なイメージや図式・語彙などによる表象の形成が恣意的になされうるということである。つまり、個々人が自らの限られた知識を用いた表象により現象の相互関連的な認識を捏造して真理から乖離した世界像を把握したとしても、人の精神はそれにより安定化してしまうということだ。この時感じる安心感が「分かった」という感覚であり、つまり「理解する」とは真の世界像の把握とは異なる恣意的な行為であり、この構造が「分かったつもり」の正体といえるだろう。

 この「分かったつもり」を回避することはおそらく不可能である。重要なのは自身の理解が不十分でありうることをメタ認知し、学び続ける中で得た新たな知識や経験に基づいてより真理に近づくように思考を変化させ続けることであり、これが成長し続けるということであろう。

 精神科医であり作家のM・スコット・ペックは「愛と心理療法」の中で「うつの健全さと人間の成長の関係」について記しており、この成長し続けるということの困難さについて述べている。精神的に健康な人間は成長を求めるものであり、そしてそこで必ず伴うことになる現在からの変化の際にうつは生じ、この過程が何らかの理由で長引いてうつ状態の解消が困難となった場合が病気として判断されるのであり、したがってうつ状態の経験は人間が成長し続けていることを示す健全の証であるという。これを上述の人間精神の観点から見ると、変化の過程ではこれまで育んできた考えや古くなった行動様式及びものの見方の変更が迫られるのであり、その際に生じる人間精神が不安定化した状態がうつ状態といえるだろう。そして、この精神の不安定化を伴う過程が非常に不快であるために、「多くの人間は古い思考や行動様式にしがみつき、成長を拒否してしまい、より大きな成熟に伴う再生の喜びを経験することができない」と述べられている。以上のように考えてみると、作家のエルバート・ハバードによる「成長は往々にして苦痛を伴う過程である」という言葉の意味も見えてくるように思う。

 人間においては変化を止めることは現状維持ではなく退化となる。安寧を求めることなく、「分からない」という不安定で不快な状態を受容し、思想を結晶化させて思考停止することなく、成長し続けていきたいものである。

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