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【エッセイ】大人という病〜自由意志について〜

 研究においてはチャンピオンデータのように都合の良い実験データを採用する、もしくは実験データが都合よく恣意的に解釈されて報告されるといったことが往々にしてなされてしまうことがある。このような不誠実さはどうして生じてしまうのか。

 単純には会社など周囲からの圧力というのが答えとなるだろうが,より悪性なのは無意識に行われている場合だと考えられる。無意識により行動パターンが規制されることは,神経科学者のヘインズが発見した『これからの行動に関した意識に関する脳神経の発火の前に既にこれからの行動を決める脳神経の発火が生じている』という実験事実により現実味を増すものとなった。この機構によれば人間における自由意思というのは実行(脳神経の発火が強要する行動)の拒否という形では可能ということになるというが,結局その人間がどのように行動を起こしうるかはそれまでの生き方が既に決めていることになるのだろう。『何も行動を起こさないでいられること(全ての非自発的な行動要請への拒否)が最大限の自由意思の発露』だとは皮肉の極みである。そしてそうするとフロイトのいう無意識による防衛機制が,実験において見たいデータだけを見て,都合の良いデータ解釈をする傾向を強要するのではないか。つまり、受け入れ難い状況に直面した時、それによる不安を軽減する方向に思考(脳神経の発火パターン)が指向され、否応なく弱き人間には『見たいものしか見ない(見れない)』という不自由意思とでもいうものが生じているのではないか。

 ここでさらに自由意思について考えるために『四肢麻痺患者における病態失認状態」と「催眠状態で手足が動かせない状態』の類似性についての話を紹介したい。この患者は手足が動かせないのは動かしたくないからだと思い込み,四肢麻痺を否定する言い訳をいくらでも作り出すのだが,催眠状態のために手足が動かせなかった人も,動かそうと思えばできたがそうしたいと思わなかっただけだと似たようなことを述べるのだそうである。ここで『動かそうと思わないことが動かせないということと全く同じである』と考え,これを思考における場合にあてはめると,実は私たちは自由に思考することができると思い込んでいるが,『自分はいろいろ考えることができるのだと思い込んでいることが自分に自由意思があるという認識を生じさせているだけ』なのではないかと思えてくる。

 この病態失認患者や催眠状態における思考回路は理解しがたいようだが,実は私たちはそれを実体験するという確実な形,『大人』と呼ばれる状態を通して知っているのかもしれない。つまり、大人とは『考えられるけど考えたくないのだとエンドレスに言い訳を作り続ける思考麻痺に対する病態失認状態』と診ることができるように思われる。

 私たちは誰もが実験データに限らず目の前の出来事に対して常に誠実でありたいと願うが,ここで述べてきたように考えてみると、知識に基づく自戒など無力なのではないかと思えてくる。では何か手はあるのかというと,信仰的にならざるを得ないが,環境レベルから変えていこうとすることが,意識的にはできない脳神経発火パターン、つまりは意志の制御の唯一の手段といえるのではないか。またそうであるならば、それは人が環境に支配されていることを意味し、『環境が人をつくる』という解釈に科学的根拠が与えられたと見ることもできるのかもしれない。

 人間は環境や文化をより優れたものにしていく努力をし続けているが、それはより優れた人間性の醸成とパラレルであるのだと期待したい。

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