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幻想鉄道奇譚 #10

 パトリックとゾーイ、クーパーの冷静な対処からして、乗務員は当然知っているし、こういったことはおそらくよくあることなのだ。だって、そうでなくては、もっと慌てるはずだからだ。

「なにごとですか」

 休憩していたはずのギャレットが、隣りあう車両の騒ぎを聞きつけてしまったらしい。クーパーはゆったりとした声音で返答した。

「乗車前にパブへ立ち寄ってこられた方らしく、酔われておりましてね。こちらでのお食事を希望されておりましたが、おぼつかない足取りで転んでしまわれ、そのまま眠ってしまわれました。お騒がせして失礼しました」

 スマートな嘘に、エイダンは驚いた。やはり慣れている。ほとんどの乗客がAだとしても、生粋の人間が乗っている可能性だって当然ある。Aだとわかれば、即座に通報する人間がいるご時世だからこそ、クーパーは嘘をついたのだろう。

 ギャレットは納得したようにうなずき、笑った。

「そうでしたか。なるほど、私も気をつけるとしましょう……と言った先から、葡萄酒を頼みたいのだが、いいかな」

「ええ、もちろんです。お好きなお席にどうぞ。お持ちしますね」

 ゾーイが笑顔で答える。

「チーズの燻製も一緒にいかがですかな?」

 パトリックの言葉に、ギャレットは目を輝かせた。

「いいね。いただこう」

 男性を抱えたクーパーの横を過ぎて、ギャレットが入ってきた。エイダンが会釈をすると、彼もにこやかに応じてくれる。いますぐにでも彼と話したいが、男性を抱えていくクーパーを手伝ったほうがよさそうだ。ゾーイとパトリックに目礼してから、エイダンはクーパーを追いかけた。

「クーパーさん、お手伝いします」

 断られるかと思ったが、ぐったりとした男性を抱えて立ち止まったクーパーは、その予想に反して顔面を蒼白させながらうなずき、

「失礼」

 軽く咳き込む。

「あの……大丈夫ですか」

「……ええ」

 エイダンが通路のランプを消してもいいか訊ねると、クーパーは消さなくていいと言った。

「いいんですか?」

「しばらく時間をおいてから、彼を貨物車両の仕切り部屋に隔離します。あそこは完全な暗闇にできますから、彼も安心してくれるでしょう」

 それ相応の対処法がすでにあるらしい。聞きたいことは山ほどあるが、エイダンはいっさい口にしなかった。だって、あと九日で辞める身だから。どうせ辞めるのだから、いまさら知ってもしかたのないことだし、むしろいまさら知りたくない。

「なにも訊かないのは賢明です。ぜひその態度を貫いてください」

 クーパーの鋭い眼差しには、脅しめいた気配があった。言われるまでもない。そのつもりだ。

 いったん男性を部屋に運ぶ。ベッドに寝かせていると、スミスがきた。事情を伝えて彼に見張りを頼むと、クーパーはまた咳き込みながらなにかささやき、通路にでた。大丈夫かとエイダンがふたたび訊ねると、うなずいた。

「……大丈夫です。ひとまず、君は車掌室で待機を。次の駅で停車するときに声をかけます」

「わかりました」

 クーパーが先に歩き去る。その背中を視界に入れつつ、エイダンは彼のささやきを思い出していた。

 ――なんてひどい匂いだ。

 なにを指してのことだろう。まさか、ギャレットの香水かな。いや、あんなにいい香りなのだから、それはない。たんなる聞き間違いだ。

 今後はなにが起きても、余計なことには極力かかわらずにやり過ごそう。知ろうとしなければ、無関係でいられる。そうしたほうが身のためだ。そう自分に言い聞かせながら、エイダンは車掌室に向かった。 

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