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幻想鉄道奇譚 #8

 これから往復十日間、つきあわなくてはいけない職場が駅を離れ、夜の都を駆け抜けていく。

 この一往復はなんとかのりきろうと自分で自分を励ますものの、残りの日数を思うと気持ちはなかなか鼓舞されない。大学を中退してからというもの、ぱっとしないことばかりが続く。運に見放されていくかのような連鎖をたちきるには、いったいなにをすればいいのだろう?

「遅くなってすみません。水をお持ちしました」

 エイダンは揺れる車内を休み休み歩きながら、ゾーイに用意してもらったトレイをなんとか運び終え、紳士の個室のドアを開けた。

 サイドテーブルもかねた小さなデスクと椅子、ほのかな灯りを放つグリーンガラスのランプ、ベルベット生地のソファ兼ベッドに、洗面室とシャワーまでついている個室は、落ち着きのある瀟洒な調和に満ちている。ソファのシートでトランクを開けていた紳士は、さりげなくそれを閉じてから立ちあがり、トレイを受け取ってデスクに置いた。

「助かったよ。ありがとう」

 ありがとうと言ってくれるのは、いまのところこの人だけだ。せめて役にたちたいと瞬時に思ったエイダンは、鍵を渡しながら「困ったことがあれば言ってください」と去り際に伝え、自分の名を告げた。すると、紳士が右手を差し出した。

「ギャレットです」

 しなやかな力の握手だった。はっとしたエイダンは、ギャレットの顔を視界に入れて目を見張る。勘違いだろうか。いや、僕にはわかる。これだけはわかってしまう。エーテル紐を傷つけまいと、常に細心の注意を払っているかのような指の力。きっとそうだ、間違いない。

 ギャレットは、エイダンが憧れてやまなかった職業に就いている――おそらく、エーテル修復師だ。

 ギャレットの瞳が輝いた。

「これは驚きだ。こんなところでお仲間に会えるとは思わなかったな」

 彼にもわかったらしい。にこやかに笑むと手を離し、グラスに水をそそいで飲んだ。

「なぜ車掌を?」

 そう訊かれた瞬間、なぜかどうしようもなく泣きたくなった。憧れの仕事に就いている人物に、自分の身の上を語れる機会などそうはない。そんなチャンスの突然の到来に、胸がいっぱいになったからだ。

「……恥ずかしながら、いろいろありまして……」

 うまく言葉にならない。これ以上話したら、いよいよ泣いてしまいそうだ。うつむいたエイダンが眼鏡の位置をととのえたとき、ドアの前を通り過ぎたゾーイと目があう。紳士に向かって愛想よく会釈したゾーイは、エイダンにそっと耳打ちした。

「車内販売を手伝ってほしいから、ここが終わったらレストランカーにきてくれる?」

「はい、わかりました」

 ゾーイが去る。そうだ。いまの自分の仕事は車掌であり、身の上をギャレットに語ったところでそれがくつがえされるわけじゃない。落胆とともに気をとりなおしたエイダンは、ささやかな自尊心をふりしぼって精一杯の笑顔をつくった。

「卒業試験に失敗し、大学を卒業できないまま中退したのです。いまはいろいろと模索中です。この仕事は、その模索の一つです」

 もっとも、この一往復で終わるだろうけれど。エイダンは苦笑まじりに軽く帽子をあげて会釈し、通路にでた。

「じゃあ、その仕事に就きたかったわけじゃないということかな?」

「え? ええ……まあ。そうですね」

 ギャレットが微笑んだ。

「いいことを教えてあげよう。本当は公にできないことなんだが、大学中退者でもエーテル修復師の国家資格を得られる方法がある。私がそうだ」

 エイダンは目を見張り、息をのんだ。

「まさか……本当ですか?」

「ああ。正規の資格を受けられるし、合格したあかつきにはグレートランド王国刻印入りのグローブも、もちろんたまわれる」

 エイダンは心底驚いた。大学じゃそんなこと誰も口にしていなかったのに、どういうことだろう?

 ギャレットが言葉を続ける。

「せっかく学んだことを活かせずに、不本意な職業に就くしかないのは不幸なことだ。もしも興味があるのなら詳しく教えてあげるから、時間のあるときにでもここにくるといい。もちろん、同僚のみなさんには内緒でね」

「公にできないことなのに、どうして僕に教えてくれるんですか」

「私にも不本意な仕事に就いていた過去がある。君に同情したと言えば、納得してもらえるかな?」

 そうなのか。エイダンは控えめに微笑んだ。それを見たギャレットは、優しい笑顔を浮かべながらゆっくりとドアを閉じた。そのほんの空気の動きに、ギャレットが漂わせているレモングラスがかすかに流れる。エイダンはその香りの奥に違和感を覚えたものの、どくどくと高鳴っていく自分の鼓動に気をとられ、すぐに忘れてしまった。

 だって、あきらめるために格闘していた夢の前では、わけのわからないスミスとの約束など些末なことだから。

 インクのような、鉄のような匂いがしたような気がするなんて、勘違いもはなはだしいことだから。

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