幻想鉄道奇譚 #44
車体が大きくカーブをする。分岐点が近い。
「お……落としたのよ!」
「だったら、探せ!」
ゾーイに向かって吐き捨てたギャレットは、すぐさまエイダンの胸ぐらに手を伸ばした。直後、そばに立った女性がおやめなさいなと、その手を優しく包み、微笑んだ。
ギャレットが振り払おうとすると、今度は煙草を吹かせる紳士がうしろに立って、女性の誘いを断るのは失礼というものだよ、君、などと笑う。さあ、歌いましょうと女性が言うと、バンドネオンの演奏者が伴奏を奏ではじめ、車掌が手拍子をはじめた。
私をどこか遠くに 連れていって
あなたの唇が 秘めやかな詩をとなえたら
私はもう あなたのとりこ
「この歌知ってるぞ。ソフィアの好きな歌だ!」
ブラッドは嬉しそうに声をあわせ、歌いはじめる。
いいのよ ダーリン
あなたが妖精だって かまわない
だから一緒に 魔法の夜を過ごしましょう
夜を走る 魅惑の幻想列車で
乗客らに囲まれたギャレットは、身動きがとれず声を荒らげた。
「くそっ……なんなんだこれは……なんと邪魔くさい、やめろ! すべて幻想だ!」
車窓に映る満点の星々が、水面のようにきらめいている。そう、これはすべて幻想だ。でも、この列車が見てきた記憶の集合だ。
エイダンは、ただ〈エンチャンテッド・スターズ号〉の車内を満たすエーテルに共鳴し、その媒介となって、長い間努力してきた成果を解き放っているだけだった。呪文を繰りだせば繰りだすほど、無心で空っぽになっていく。
これほどたくさんの人物を定着させることはできないため、少しでも呪文を途切らせたらこの光景は消えてしまう。エイダンは給仕の一人の口を借りて言わせた。
さあ! もう眠い方はどうぞお部屋に! いまが潮時ですよ!
スミスがエイダンを見る。エイダンは逃げてくださいと目で訴え、うなずいて見せた。スミスはまだ歌っているブラッドを連れて、ゾーイとともにレストランカーをでた。パトリックがドアを背にして立ち、エイダンを見守る。エイダンは両手を動かし続けて呪文を唱えながら、いまだ乗客に囲まれているギャレットの横を過ぎ、ドアに向かった。
「私の……私のグローブはどこだ!」
じりじりとうしろに下がってパトリックに近づきながら、それでもエイダンは呪文を止めない。とうとうギャレットが乗客をかきわけ、こちらにやってきた。だが、バンドネオンの演奏者が前に立ちはだかって邪魔をする。別の女性がギャレットの手をとって踊りはじめる。やめろ、やめるんだと叫ぶギャレットの声が、華やかな乗客たちの笑い声にかき消された。
エイダンは、自分自身がエーテルに溶けていくような錯覚におちいっていた。なにも考えずとも、無数の呪文が勝手に適切な声にのっていく。そのたびに、〈エンチャンテッド・スターズ号〉が喜んでいるのが伝わった。ただの鉄のかたまりでも、その鉄をかたちづくっている微粒子は生きていて、エイダンと同一になっていくことに歓喜していた。だから、両手の指先のクリスタルが熱を帯びていき、グローブを燃やしはじめていることに、エイダンの意識はまったく向かなかった。
「おい、若者!」
パトリックの声がする。いまや両手が燃えあがっている。
「大変だ!」
水差しの水がグローブを濡らし、幻想世界のヴェールの幕がおりる。定着できない列車の記憶は、その一瞬で消え去った。こちらを見たギャレットが、大股でやってくる。すぐにドアを開けたパトリックは、エイダンの腕を引いて連結部を渡った。
「私のグローブはどこだ!」
ギャレットがドアに手をかけた矢先、車体がさらに大きくカーブした。ギャレットはバランスを崩し、ドアにしがみつく。
「そ、そのなかのどこかに落としたわ!」
五号車の後部からゾーイが答えると、ギャレットは興奮気味に舌打ちをした。
「まあいい。あとで見ておけ!」
レストランカーに舞い戻る。ドアが閉まった。乗務員らがなにを企んでいようとも、ブラック・グローブさえはめれば無敵なのだ。列車は終着駅までいくのだし、まだ時間はある。ここで焦ることはない。そう考えているのは一目瞭然だった。
「……ホロがないことにも気づかないとは。おろかなことです」
ゲイルがささやき、解放てこを両手で押した。ブラッドの調子はずれな歌とともに、握手をしたような形の連結器が離れはじめる。だが、ドアの向こうのギャレットが気づく気配はない。
ゆっくりと、ゆっくりと、レストランカーが離れていく。やがて、列車の速度はさらに落ち、大きな振動が伝わった。すると、こちらに向かって走る人影が見えた。分岐器を無事に動かし終えたアイザックだ。
五号車の最後尾からゲイルが手をのばす。アイザックの手を引きあげ、階段の手すりをつかませる。
「助かったよ、ゲイル」
「どういたしまして」
車両内にあがったアイザックは、足りない車両に困惑し、小さくなっていくレストランカーに眉を寄せた。
「あれ、どうしたの?」
「一緒に連れてはいけないものもある。まあ、そういうことだ」
パトリックが言った。
「お別れですな」
そう言って帽子をとったゲイルは、ギャレットに対してではなく、たくさんの思い出に深く頭を下げた。それに続くように、スミスも同じくする。エイダンも、じりじりと浅いやけどに痛む手で帽子をはずし、一礼した。
――よい旅を!
そう聞こえた気がして、小さく笑む。
いままで一生懸命に努力し、覚え、夢のために蓄えてきたすべてが、その瞬間頭の片隅にもないことを、エイダンは悟った。
ああ、そうか。僕は使い果たしたんだ。
指先が、手が燃えあがるほど無心でエーテルを集め、修復した代償は大きかった。でも、不謹慎は承知のうえで断言できる。
楽しかった。心から、本当に。
「……あの拳銃、おもちゃだったのか?」
スミスがパトリックに訊いた。パトリックは首を振る。だったらいったいなんだったのだろうと、エイダンに視線が移った。実はエイダンにも、それだけがわからない。
「……不思議なことだ。まあ、なんにせよ、いいものを見たことに代わりはない」
パトリックが言う。ああ、とスミスはうなずいて、そうね、とゾーイも微笑んだ。
「なにがあったんです?」
けげんそうなゲイルに、ゾーイが笑みを向けた。
「エイダン君が、魔法で助けてくれたのよ」
そう言われると、照れくさい。
「違います。〈エンチャンテッド・スターズ号〉が助けてくれたんです」
「手、大丈夫か?」
スミスは、指先が灰と化したグローブを見、エイダンの手を心配した。少しやけどをした程度だから大丈夫ですと答えると、パトリックが言った。
「お前さんは負け犬じゃない。魔法使いだ」
エイダンはかすかに声をだし、笑った。その自分のつぶれた声で、二度とエーテルに関わる周波数を発せられないことがわかる。それなのに、気持ちはいやに晴れやかだった。
いいのよ ダーリン
あなたが妖精だって かまわない
だから一緒に 魔法の夜を過ごしましょう
夜を走る 魅惑の幻想列車で
レストランカーはもう見えない。ブラッドの歌声を聴きながら夜空を見上げたエイダンの胸に、あらたな夢がたしかに宿る。それは誰にでもできて、けれど唯一無二の存在になれるかもしれない夢だ。
車掌になろう。乗客の旅に寄り添える、誇りある車掌になろう。
ずっと大切にしていたものを失っても、人生は続いていく。うつむいて生きるか、前を向いて生きるかは自分次第だ。両手の痛みに微笑んだエイダンは、はじめて自分を誇りに思い、胸を張ったのだった。
夜を走る、最後の幻想列車で。
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