小説を読む人、読まない人

小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。

北村薫

これは読書好きの人なら、少なからず知っている言葉である。至言と言えよう。

と言っておきながら、私は小説をあまり読まない。好んで読むのはノンフィクションやビジネス書、実用書、思想書、自己啓発書、エッセイなどだ。

小説をあまり読まない理由を浅薄に述べるとすれば、それは現実ではないからである。自分が現に生きる世界の有り様を知り、技術を知り、自分の人生をより良くするものではないからである。

では、小説をよく読む人の理由は何なのだろか。代表して小説愛好家の友人を召喚すると、曰く、「読んでいるとその世界に没入して日々のストレスを忘れられるからである。現実逃避である」と。そら見たことか。逃げではないか。

と書き進めてきたところであるが、この話は小説愛好家批判ではない。むしろ自己批判である。どういうことだろう。

まず確認できることは、現実逃避をしたい人は、真面目で誠実な人なのである。自分が生きている目の前の日常を大切に生きているため、ストレスが溜まるのである。つまり、既に十分に現実に向き合っているのである。

他方の私はといえば、「この世界は正しくない、本物ではない」という感覚に近いものを常に持っている。「常識とかどうでもよくね?」とイキっているタイプだ。何となく、現実をARのように捉えている。ARとはAugmented Reality=拡張現実、ポケモンGOみたいなものだ。

こういうのね

現実をAとすれば、友人はAを直視しつつ、時折空想の世界BCDEF…を見ているが、私は常に一つのA'を見ているということだ。

その感覚と通底するように思われるので関連して話すと、同じように小説愛好家の別の友人はSNSを一切やっていない。その理由を問うと「日常生活で会わない人とつながってどうするの?」という答えが返ってきた。

私は衝撃を受けた。まさに、日常で会わない人とつながるために私はSNSをやっているからだ。自分の現実を、日常生活を超えた範囲に拡張しているのだ。

友人たちと私では見えている世界が全然違うのだろう。私は、現実を見ているようで見ていない。現実の中に空想が入っているのだ。

それ単にお前だけじゃね?と言われれば話が終わってしまうのだが、私には、小説を読む人の方が、ただ一度の人生を健全に生きているように思えるのだ。

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