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本能の脅迫

ここ最近、進化論とか生物学に関心を持っています。とは言っても適当な一般書を流し読みしている程度のものですが。

その理由は、私自身が、幼い頃から生物の本能に脅迫されて生きてきたのではないか、という疑問があるからです。

私の初恋は保育園の年長の時でした。初恋と言えば甘美な響きですが、要するに6歳の時点で、「遺伝子を残す」という生物の本能に駆り立てられ始めた、ということです。

そしてその時、私は恋のライバル(と私が意識した同窓の男)たちとの戦いに勝つためにどうすればよいのだろうか、と考えました。

彼我を比べてみれば、自分は容姿もイケていなければ、運動能力も高くない。であれば、中身で勝負するしかないだろう。話が面白いとか性格が優しいとか、そういう戦略で行くしかない、と考えました。実に夢のない子供です。

その戦略は大して奏功しませんでしたが、縁あって結婚もできましたし、子供も授かりました。

第一子の出産に立ち会った瞬間に、ある感情が生まれました。

それは、よくテレビで見るような、新たな生命の誕生で涙涙の感動、というものではなくて、(ああ、俺の人生はもう終わったのだな)というものでした。

ちょっと冷酷なように思われるかもしれませんが、もう俺は勝手気ままには生きられないのだな、という、ある種の責任感です。

とは言いつつも、今になって思うのは、あの瞬間、もしかしたら私は安堵したのかもしれない、ということです。

子を為すこと、つまり遺伝子を残すことに成功したことで、保育園以来悩まされてきた「本能の脅迫」から解放された、と感じたのではないか。それが、生物としての役割を果たせた、という意味で、自分の人生は終わった、という感情につながったのではないかと。無意識であれ、子供を産んだらすぐ死ぬ昆虫のように。

本能というものは、いささか腹立たしいものです。我々生物は遺伝子を運ぶための機械でしかないのだと。であれば、子を残せない人生は、生物としては敗者であり、失敗の人生なのだろうか、という疑問が湧いてきます。

もちろんそれは暴論で、マザー・テレサのように、自らの子を残さなくとも多くの人命を救った人はいるわけで、大きな意味では種の保存に貢献しているわけです。集団を守るために自ら死を選ぶ勇敢な戦士、というのも割とある話です。

しかし、我々個人を苛む感情はそういった巨視的な観点では解決できません。異性に相手にされない、子ができない、といった時に感じる、あの(自分は欠陥品なのではないか、生物として劣っているのではないか)という、あの感情です。

これももちろん暴論で、理性の生き物である人間は、鳥が進化させた羽で空を飛ぶように、知能によって人生の意味を見つけられる種です。

しかし、人生論や恋愛論でことあるごとに引き合いに出され、生物である限り、その理屈に決定的に打ち勝つことができないような「生物の本能」なるもの。マザー・テレサや勇敢な戦士ではない我々が、これに抗う術はないのでしょうか。

地球上には、無性生殖、性転換する生物など多様な性や生の在り方があります。また、たとえば働きバチやハダカデバネズミは、「真社会性」と呼ばれる、種の保存のための最適な行動として、自分の子を残さず、ひたすら女王に奉仕する一生を送るといいます。

人間も進化の過程にいるだけだ、という見方もあります。人間も、真社会性のような生き方に進化するのかもしれません。

それはそれで、ちょっと不気味かもしれない、というのは、今を生きる私の感覚でしかないのでしょうけれど。

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