【話すことで気持ちを放て】
先週、 幸ハウス、お寺deなごみ、はまゆうのじかんと日常から距離を置く、場づくりに参加しました。「場づくり」って「自分の居場所づくり」なのかもしれない。
そんなことを思い、久しぶりに言葉にしたくなったので、ここにアウトプット。
それぞれの場に集う参加者の声を聴きながら、思ったことがあります。
それは、「日常では抑え、放つことが出来ない感情が誰にもあり、そこに息苦しさを抱えている」ということ。わかってはいたけど、言葉にしてみると私も含め、なぜ、感情を出すことにそんなに臆病になっているのだろうかと思う。場づくりのお手伝いをすると、仕事と家庭を往復する私の日常では、交わることのない出会いがあり、そのひとたちの言葉に耳を傾ける。「ただ、聴く」という非日常。それは私にとっても、大切な時間になっている。みんなが大切だと感じているのに、聞こえてくるのは、本当の感情を放てる場がないと言う声。こんなにも感情を放ちたいと願っているひとたちがいるのに、なぜ、日常の中ではそれが難しいのだろうか?
帰りの車で、そんなこと、ぼーっと考えていた。
気持ちを置くける場というは「つながり」を感じる場なんだと思う。
ひとと向き合うことで「つながっているんだ」という偶然とかシンクロとか、奇跡のような瞬間があり、そこに気づき、そして、それを分かち合い、身体で味わう。頭でなく身体。身体は素直なんだ。感情が震える感覚。グワーッって、こみ上げるものがあったり、涙があふれたり。そんな瞬間を感じた時に、ひととひととが「つながっている」と感じ、その積み重ねが、ひとをおだやかにしていくのではないかと思う。
ひとは、ひととのつながりで生きられる。
おだやかに生きるとは「奇跡の点の収集」なんだと思ったのです。
偶然の積み重ねから「出会えた」接点。そのひとつの点をきっかけに、お互いが言葉を放ち合うことで、それぞれ生きてきた中から見出す共通点。そこに安堵したり、喜んだりしている。奇跡の点が多いほど、私をわかってくれる相手だと安心感に包まれる。
点は面になり、そして、その相手が居場所になる。
奇跡的の点は、実は至るところに転がっているのに、相手に深く向き合うことが少ない日常では気づけないだけなのかもしれない。
ひとは得てして、自分のことを語ることが苦手だ。
苦手と言うより抵抗がある。
ベースには「私のことをわかってもらえない」不安があったりする。ひとはわかってもらえた喜びよりも、わかってもらえなかった時の怖さに目が向いてしまうものだ。日常の中で、自分をさらけ出して、気持ちをわかってもらえないことを想像する。それは地獄だ。ひとは、周囲や社会に合わせ、理解してもらえた方が、生存率が上がるという本能のためにネガティブがあると聞いたことがある。レールから外れると、どんな猛獣が待っているかわからない。誰かの歩んだ道は安心して進めるのだ。だから、非日常の閉ざされた場なら、自分の感情を出しやすくなるのかもしれない。
私が思う「日常」とは予測できる未来に向かう今である。
言い換えると、日々、何となく決まっているスケジュールをタンタンとこなす時間。そして、非日常は、その日常から、意識的に外れること。
もし、日常が地獄になったらたまったもんじゃない。そこを避けるためには、やはり、感情を安心して放てる非日常がなんだ。
言葉やまとった空気を放つことは、相手との「奇跡の点」を見つけるサインだ。
奇跡の点の集まりに目を向けられた時、目の前のひとが居場所だって気づく。
置きどころのない感情を放ちながら、自分の感情に気づく。
私は誰かの居場所になるために、場づくりにいる。
それは私の居場所にもなっていると自覚しているからだ。
〖幸ハウス〗
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〖はまゆうのつどい〗
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