劇とお客という関係は、スパイスのさじ加減にある

2020-02-23 23:02:10

テーマ:保育・教育
今年は、劇をやめた。しかも年長である。

厳密には、「やめた」という表現より、「選択肢」を増やしたという
方が適切だろう。


例年は、劇をするというのが決まっていた。かなり多くの園がこの時期に
「劇」というのに取り組むだろう。場合によっては、年少から「発表会」という
形で、親に見せるところもあると思う。いや、ほとんどそうか。

「劇」と「発表」というものが出会うと、「成果物」というシロモノに化学変化する。僕は、これが一番嫌いである。

嫌いというのは、すべての発表会を否定しているわけではない。
発表会という形式をとっているが、内容を子どもたちと決めたり、
かなりカリキュラムの工夫をしているところも増えてきている様に思う。

が、多くの場合、ほとんど劇を保育者が指導して、親に見せるというゴールが
予め決まっており、お尻を観客席に向けないという劇団員風な勘違い指導をし、
声はもっと大きく!という体育会的なノリを強要している、そんな状況だろう。

そんな時代錯誤的な保育は今すぐやめた方がいい。

まあ話を戻すと、劇と発表のセットがなぜ問題なのかというと
2つの理由がある。

一つは、保育者の意識がどうしても「見栄え」というものに引っ張られること。
その結果、保育的な援助や環境構成が、「劇の指導」に成り下がってしまう。

二つ目は、子どもの「見せたい」という思いが置き去りにされていること。

「劇」や「ダンス」は、突き詰めていくと「見せたい」という思いが自然発生的に
生まれてくることもある。「見せる」という行為自体を否定する気もないし、今年の
うちの子どもたちを見て、むしろ「成長の要因」かもしれないとも思っている。

しかし、「見せる」というのは段階がある。

遊びを続けていくと、誰かが「お客さんを呼ぼう」と言い始める。
遊びこむことで、こういった流れが自然に生まれてくる。

最初は、クラスの友だちから始まり、だんだんと他のクラスを呼び、その人数も
どんどん増えてくる。

「見せる」と言っても、当の本人たちは、お客さんの目など全く気にすることなく
途中で相談を始めたり、ある子は他の遊びを始めたり、勝手に自分たちの遊びを
楽しんでいる。
*担任としては、冷や冷やすることもある・・・

年長になると、例えば今年の子たちをみると、ダンスを見に来てくれた子にお土産を渡そうとか、歌いながらタッチ(ある種のファンサービス的なもの?)をするとか
多少、お客さんのことを気にはしている

でも、途中で歌詞の確認を始めたり、振り付けの見直しを始めたり、
あまり、見られているという意識はないように思える。

そう!「見せたい」と言ってお客を呼んでいるのであるが、視線を気にすることなく自分がしたいことをやり続ける!

これが、とっても大事なのではないのか。

「見せたい」と言っているのに、「見せている」という意識はあまりない。
アンビバレントな図式である。

お店屋さん、病院ごっこなどにおいての「お客」というのは、対話の相手に当たり
ある一定時期から「いないと困るもの」になる。
(場合によっては、人形で代用し、一人遊びでもできることもありますね)

劇やダンスにおける、「お客」というのは、何と言うか「背景」にあたるもので、
ないとその遊びが成立しない、という訳でもない。

劇やダンスを表現をとすると、表現における「お客」はあくまでスパイスなのかも
しれない(と、書いていて思い始めてきた)。

じゃあ、お客というスパイスはどうあるべきか。

それが、段階を踏むということではないか。

段階を踏まないから、スパイスでアレルギーが起きてしまうのである。

今年のダンスをしていた女児。最初は、お客を呼ぶどころか、「私は絶対に人に
見せない」とわざわざ私に言いに来たり(そんなこと全く強要もしてないのに)、
見られることが恥ずかしくて、ダンボールで作ったツイタテを作って踊っていた。

そんな状態から始めたが、10月頃から始めて12月になると、ポツリポツリと
(勝手に)自分たちでお客を呼び始めていた。

そんなダンスがだんだんと女児の間で浸透し、まあ色々あって、女児の全てが
ダンスに参加し始めたのが1月末。そこから、毎日遊びまくっていると、自然と
お客を呼びにいっていた。

で、女児のダンスは、2つのグループに分かれていて、最近始めたグループも
一方のグループに倣ってお客さんを呼ぶのだが、あるとき、保育室ではなく、
私たちも、あの子たちみたいにホールでやりたい、と言いにくる。

で、お客さんを呼ぶ。10人くらい来たか。

実際に、出る場面になると、めちゃくちゃ緊張してる。

客なしでやっている時と比べて、声は小さいし、体も硬い。

どうするかな〜と思ったけど、見事歌い、躍りきった。

自分でやってみたいと自ら課題?(そんなこと思ってないだろうが)を課し、
やってみたら緊張したけど、これなら乗り越えられるって思ったのだろう。

だから、緊張していたのにも関わらず、「見せる」というのは続いていった。


これぞまさに、中原淳先生が云う「背伸び」の論理。

今ある自分の力より、ちょっと努力することで、届く課題。

これを、子どもたち自身が、見つけ出し、企画し、実行する。
これこそが保育の醍醐味だろう。

付け加えるのならば、中原先生は、背伸びの論理も含めて、「楽しい」という
興味関心が、人を成長させていくという。

ダンス女児たちは、ダンスがめっちゃ楽しいから、自ら「背伸び」をして
緊張を超えていったのだろう。

先週の金曜日、ある企画(母親企画)で集まっていた自分たちの母ちゃんを
かなりたくさん集めて、中ばゲリラ的にダンス発表会を行った(笑)。

メッッチャ緊張していたっぽいが、それより、みんなで気持ちを合わせたり
歌ったりできることの方が楽しそうだった。

これらのプロセスをスッとばして、いきなり「たくさんの親に見せる」というのは
カレーを食べたことのない乳児にインドカレーを食べさせることである。
アレルギーで卒倒するだろう。


「見せる」というのは、あくまで背景であって、必要不可欠な要素ではない。
でも、場合によっては子どもたちを成長させることもある。

うん。僕は、近年「見せる」ということをかなり一方的に嫌っていたが
今年の子たちの実践を振り返ると、「成長」につながる要素もあるようだと
教えられた。


今日のまとめ

お客というスパイスは。ちょうど自分たちが「背伸び」をするのに適した
味にすべし。


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