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罪と罰と

罪を犯すことは恐ろしくない
罪を犯したことに気付いてさえいないから
しかし漸う罪の意識がほびこる
そうして最も恐ろしい罪を認めるときをむかえる
 
罰を受けることは恐ろしくない
罰の実を知らないから
しかし漸う罰を考え始めるようになる
そうして最も恐ろしい罰の実を知るときをむかえる

うつせみの世から罪と罰とは消えない
罪と罰の織りなす悲哀の未来を知らないのだから


一言メモ

今回の詩も、私が高校 3 年生の時に製作したものです。この作品は題名の通り、「罪と罰」が一体何なのかということを考えて出来上がったものです。なぜ、こんなことを考えていたのかと言うと、罪というものが年齢に応じてどんどん変化して行くことに疑問を覚えたからです。例えば、子供の頃は虫を殺したり弄んだりしていても心が痛むこともありませんでしたが、成長して行くと無闇に殺すこと(学術的な場合は割り切っていますが)に抵抗を覚えるようになって行きます。つまり、物事に対する意識が余りにも異なっているため、子供の頃は罪に感じなくても、大人になると罪に感じるなんてことは珍しくないわけです。このように考えて行くと、罪というものは本人の心に襲ってくる良心の呵責の原因になっているものではないかと思えてきます。よって、罪は外界に対して働いた行為そのものではなく、自分の中から湧き上がってくる後悔や懺悔が複雑に入り混じったものだと考えたわけです。そういう意味では、罪は非常に内的なものと言えるでしょう。一方、罰は罪を犯したことの対価として行われる制裁の 1 つですが、こちらは内的な罪と違って外的に行われるものです。外的であるということは、当然どんな罰が待ち受けているのかも分からないわけです。つまり、内的な罪は自分の良心の問題になりますが、外的な罰は相手の考え方に委ねられています。しかし、自分の手を離れたところで、自分の未来が決定されるということは非常に恐ろしいものです。相手に自分を委ねるということは、自分の人生を自ら掴めないということと等しく、生きるものとしてはこれほど恐ろしいこともないのではないかと考えてしまいます。よって、罰は罰が行われるその瞬間ではなく、実は罰を知る瞬間にこそ秘められているものではないかと思ったわけです。従って、罪は内的に湧き上がるその感情を認識してしまった瞬間に、罰は外的に決められてしまった自分の人生を知る瞬間に本当の恐怖がつまっているように感じました。
勿論、これは原始的な社会での話かもしれません。法治国家として成熟した現代では、罪も罰も法によって定められているため、罪は法というレンズを通して客観的に認識しますし、罰も判例という辞書により理性的に知ることができます。これは非常に賢い手法ですが、一方で死刑を望むがために殺人を犯す人も生み出しました。そんな新たな問題が出てきた現代だからこそ、改めて罪や罰の意味を考えたいこの頃です。皆さんは、罪や罰をどう考えますか。

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