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「初めまして」じゃない。誰かのロマンスの続きを生きる私たちへ

人は死んだらどうなるんだろう?
物心ついた頃から、そんなことばかりを考えている。

例えば明日私が死んだとする。

すると今日と明日の境目がなくなって、好きだった人のことも、昔好きだった人に教えてもらったアドレスも、両親の顔も、隣の家から漂うシャンプーの香りも、自分が何者だったのかも忘れて、世界っていう概念のもっと遠い「ここじゃないどこか」をぼうっと彷徨い続ける。

まず、手と足っていう概念がないから、自分がどこに向かっているか分からない。

進んでいるのか、ただ浮遊しているだけなのか、楽しいのか哀しいのか?そんな「分からない」という感情さえも抱けないまま、生前の記憶の1番大切な思い出だけをなくしてしまわぬよう、繰り返し繰り返し唱え続けている。

そうしたら数年後、天使的なヤツがやってきてこう言うのだ。

「君、待たせたね。君に10万2360回目の命をあげるよ。どう?見えるかい?そう、今度はあの若い夫婦だ。寿命は82年あげよう。どう過ごすかは君次第。後悔のないように。では、元気で」

そうして、パチっと指を鳴らした瞬間。私は、生前の一番大切な記憶と引き換えに、またこの世に生を受けていく……のかもしれない。

2020年5月23日。
父方の祖母が死んだ。病院のベットで誰にも見つからないようにひっそりと息を引き取った。

Twitterで木村花さんが亡くなられたことを知った数時間後のことであった。

「実感、沸かへんなあ」と何処か上の空の父と一緒に、家族みんなで兵庫県の田舎町まで車を走らせる。

涙も出ないまま「死んでしまった」という実感も沸かないまま、生前のお気に入りであったピンクの着物を纏った祖母の頬に触れた。

小さい頃から知っているはずなのに、もうこの世の人ではない祖母は、何だか知らない人に見えた。

私はどこか上の空で、従姉妹と一緒に折り鶴を折り続け、日が暮れるのをじっと待った。

夕方になると、葬儀場の人がやってきて、祖母が生前着ていた服や、デイサービスでもらったお誕生日の色紙なんかを手際良く納棺していく。

私は、折り鶴の羽を広げ、祖母の動かなくなった胸にそっと羽ばたかせてみたりした。「手紙でも書けばよかった」と思ったのは、副葬品でピンクの着物が見えなくなった頃だった。

「父ちゃん、慎吾さんあったよ!見つかったよ」

息を切らした母が手にしていたのは、亡き祖母の息子である私の父と伯父。2人分の古い木箱に入ったへその緒。

父と伯父がは「ソレ」を受け取り、棺桶の中で眠る祖母の両肩に置いた。50年以上昔、命が確かにつながっていたカピカピのヤツ。

母は泣いていた。

「お義理母さん良かったね。へその緒を一緒に入れてあげるとな、天国に行ってもな、またいつか親子として会えるらしいねん」

父は母に「ありがとうな」とだけ言って、少し泣いた。

19年前に祖父がなくなってから、祖母は認知症になった。
大好きだった畑もすっかり辞めて、ただ大好きだった夫、つまり祖父のことだけを思い続けている日々。そのせいか、祖母とはもうずいぶんまともに話せておらず、私の記憶も19年前で止まっている。

祖母の遺影は祖父の還暦祝いに行った九州旅行の写真に決まった。

古いアルバムから見つかったのは、ずいぶんと若い2人。写真の中で祖父に腕を絡ませ、幸せそうに笑う祖母は、祖父の遺影と対である。

「やっと夫婦ツーショットに戻れたね」

それから夜は、古いアルバムをみんなで囲んだ。祖母が娘時代だった日、祖父と結婚した日、叔父が生まれた日、そして父が生まれた日。父と母が結婚した日。私が生まれた日。

写真の中の祖母は、いつも何故か眩しいものを見るような顔をしている。

さらにページをめくると、中学生時代の父に出会った。
いかにも「青春してます」みたいな顔で、隣には母じゃないそこそこ可愛い中学生女子がいる。父の、当たり前の青春がそこにあった。

偶然の連鎖が揺れている。

出会って、生まれて、の繰り返し。何十億分の、偶然の連鎖。

祭壇からこちらを見つめる祖父は、もうずっと祖母を待っていたのかもしれない。

物凄いロマンスの確率の上に生きている私たち。そして、いつか「生きていた」ことさえ忘れてしまう愚かで可愛い私たち。

翌朝。ユリの花に埋もれた祖母は、火葬場でぼうっと燃えて、風に揺れて、すっかりこの世から皮膚という皮膚を消した。残ったのはぐちゃぐちゃになった骨だけだ。

実感がないと、ほとんど涙を見せなかった父が「あんなに熱いところに入るなんて可哀想やわ」と泣いた。

焼かないでほしい。連れて行かないでほしい。消えてなくならないでほしい。骨壺の中になんておさまらないでほしい。

外は嘘のような青空で、火葬場の煙だけが静かに揺れている。死んだらさあ?ほんまに空なんかにいけるんかいな。

お坊さんは涙にくれる私たちに「お葬式は人生の卒業式なんですよ」と優しく微笑みながら、そっと合掌をした。私たちも続いて手を合わせる。

「死んだらどうなるんだろう?」子どもの頃はそんなことばかり考えていた。今も時々考えそうになるけれど、怖くてすぐに辞めてしまう。

子どもの頃より、私たちはずっとずっと終わりに近づいている。
それは50年後かもしれないし、10年後かもしれないし、明日かもしれない。

終わりに向かって走り続けている、この足で。
1日1日という点を、くるくると揺らめきながら「人生の卒業式」とやらに向かってダンスを続けている。泣いたり、笑ったり、悔しがったり、恋をしたりしながら。

そうして、私もいつか死ぬ。長生きできるかは分からないけれど、いつかサヨナラしなければいけないことだけが真実だ。そして、私たちは何故か生まれた時から「ソレ」を知っている。

そうしたら、数年後天使的なヤツがやってきてこういうのだ。

「君、待たせたね。君に10万2361回目の命をあげるよ。どう?見えるかい?そう、次は、あの街の夫婦だ。今回の寿命は90年。どう過ごすかは君次第だ。後悔のないように。では、元気で」

そうして、パチっと指を鳴らした瞬間。私は、生前の一番大切な記憶と引き換えに、また、あなたに出会うのかもしれない。

「懐かしい」とか「初めて会った気がしない」に付随する感覚も、親子とか親戚とか、友達とか、好きになったあの人とか、どうしようもなく誰かにひかれる気持ちが、全文全部「初めまして」じゃなかったらいい。

揺れる線香。むせ返るような焦げた骨の匂い。家路につく前の、誰かの家のシャンプーの香り。

「あなたねえ、それ初めましてだと思ってるけど、実は10万2361回目ですからね?」みたいな。

長い夢をみつづけている私たちは、
いつも誰かのロマンスの続きを、生きている。

いつか、また会いましょう。




















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