一見フェミニストにみえるミソジニストに関する覚書

1 問題

先ずはエロティシズムな写真集に関する次の非難文を読んでほしい。文中に登場するAは20代前半の女性アイドル, Bはそのアイドルをプロデュースする60代の男性である。そしてCは20代半ばの女性タレントである。

実際にソーシャルメディアに投稿されたものであるが、1)個人の匿名化, 2)読みやすさ(ネットスラングの記号の排除と句点・読点の追加)から、部分的に編集し複数のスレッドを時系列の古いものから繋げている。
単純に置き換えたもの以外の補足説明は""で囲うことで明示した。「推す」「魚拓」といった特殊な言葉についても同様に簡単な説明を付記している。

Aさん、わざわざ白状してくれてありがとう。
やっぱ頭の悪い子”A"は口が軽い。
写真集は、B自身が関わってる。
Aの所属するアイドルグループの系列"のエロ写真の戦犯は、B。
こういう女性を商品として楽しんでるゴミ"ファンあるいはB"も一日も早く表舞台から退場していただきたい。そして、"Aの所属しない別のBがプロデュースするアイドルグループ"からずっとそうだけど、変に推される”積極的に売り出される”子は、やっぱB自らが関わってるという(Cさんの場合、暴行事件起きた後、最後の最後まで本人”B”と連絡がとれなかった)ことを、Aが白状してくれたという。
やっぱ頭の悪い子は素直でよろしい。ほんと糞だよね。そして、エロ写真を出すことが格好良い、おしゃれだと思ってるアイドル達、特にB下の奴等、消えろ。(中略)まあいいよ、彼女達は、私の言ってる事は理解できないだろう。彼女達の親御さんたちも。
しかし、"Aの所属しない別のBがプロデュースするアイドルグループ"がどういう末路を辿ったか。エロ写真集ばっかりだして、一般ファンがどのように去っていき、挙句は”国民的音楽番組”にも出れなくなったか、いずれ分かる時が来る。自分達だけは違うと思うなよ。歴史は繰り返すんだよ。彼女等って、根本的に アイドルの仕事って、握手すること、エロ写真集出す事だと思ってんだよね。まあアイドル活動を自分の人生の思い出作りとしてやってんなら、それでいいと思うけど、この先長く芸能界にいたいんだったら、こんな事やってて、生き残れると思うなよ。先輩見てわからない?(中略)今まで事あるごとに(何か事件起こすことに)私は運営面には関係ないとほざいてたB。しかし、そんな嘘は、"Aの所属しない別のBがプロデュースするアイドルグループ"時代からバレている。いろんな魚拓”証拠”も残っている。
私もまさか写真集の細かい事まで口出してないだろうと思ってたら、口出してたことをA自身が白状してくれた。ほんと糞だね。エロ写真集の戦犯は、B。たとえ本人が望んでる撮影だとしてもアイドルが尻だしたり、胸を出したりヌードまがいの事やるなんて、絶対に許せないしこんなもの国連の人権理事会に出していい案件だと思う。
おしゃれで誤魔化すな。
単なるセミヌード写真集である。

分類前の文章への反応を予測すると次のようになる

1)アイドルファン
主張全般への否認或いは、部分的な無視。
2)特にアイドルを好きではない人、アイドルを嫌悪する人
主張への肯定。無視もあり得る。

本覚書の目的は、筆者を攻撃することでも、アイドルの写真集を取り巻く是非でもない。無視されがちな一つの主張に内包する要素を分解し、賛成か反対かの二極化反応に疑問を呈し、多義的な見方を提示することだ。

2 分析

分析手法は、完全ではないがKJ法に類似したカテゴライズ方法を用いた。
文章を男性Bに対する言葉、女性Aに対する言葉に分類すると次のようになる。なお言葉の向かっている対象をはっきりさせることが目的なので、執拗に繰り返される「糞だね」という感情の叙述は排除している。

このように言葉の向けられている対象者ごとに分類すると、印象が変わったのではないだろうか?

文章の性質を大まかに分類すると
1)Bへのまなざし、または攻撃。或いは両方
2)女性の権利保護
3)Aへのまなざし、または攻撃。或いは両方
4)分類不可

になる。ここでの「まなざし」は、筆者の捉え方、対象となった人物の解釈をいう。つまり、どのように見なしているかということである。

カテゴリーは、現状への否認と目指すべき是認に分類している。よって事実の確認や具体的な対象者を伴わない主義主張は「分類不可」に該当する。そしてこの段階に至ると個人A、Bではなく、女性、男性と意味が般化したことを認めねばならない。

さて表1にこの4つのカテゴリー分類を加えると次のようになる。

男性Bに向けられている言葉と女性Aに向けられている言葉は同数である。
男性Bに向けられてる言葉の分類の内訳は、
分類不可 2
まなざし 4
攻撃   2

女性Aに向けられてる言葉の内訳は
分類不可 1
まなざし 7
攻撃   4
となっている。

如何だろう。この文章の主訴は、

本人が望んでる撮影だとしてもアイドルが尻だしたり、胸を出したりヌードまがいの事やるなんて、絶対に許せないしこんなもの国連の人権理事会に出していい案件だと思う。
おしゃれで誤魔化すな。
単なるセミヌード写真集である。

と締めくくられているように、女性アイドルの写真集を性的に消費する構造への問題提起であるが、こうして要素に分解すると女性に対して非常に辛辣な言葉や攻撃が執拗に繰り返されていることにお気づき頂けたのではないだろうか?これから述べることを理解して頂くには、ここで一旦、女性差別に関する解説を挟まなければならない。

3 女性差別に関する説明

女性差別は、
男性による女性への差別行為という枕詞がついているのが一般的な感覚でもあろう。そもそも女性差別とはなんぞや?という定義に立ち戻ると、

「女子に対する差別」とは,性に基づく区別,排除又は制限であつて,政治的,経済的,社会的,文化的,市民的その他のいかなる分野においても,女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し,享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。

女子差別撤廃条約の第1部第1条で定義されている。
なんだか小難しいが、差別を行う性別が書かれていないことに留意して頂きたい。つまり一般的な感覚(Common Sense)とは異なり、必ずしも男性だけが女性差別を行うわけではないのである。
女性による女性の差別も存在するということだ。

女性アイドルの写真集を性的に消費する構造には心理学では、価値の内在化と呼ぶ問題が伴っている。
基本的には、男性ファンが女性アイドルを消費するのが大きな流れであるが、女性アイドル自身は女性でありながらパフォーマーとして性的消費に加担するという矛盾した性質を内在する。偏った見方をすると、先に述べた女性による女性差別を行っている。
しかし、これでは説明が不十分である。なぜなら彼女達は同時に差別の被害者であり性消費の被害者だからである。

結論から言えば、男性の女性アイドル消費の価値観を彼女達自身が自分自身の価値として内在化している。形や程度は人によって異なるが、何かしらのプロセスを経て自分の価値観として持つことになっているのである。特に優れたパフォーマンスを残す女性アイドルほど、受け手の価値観が分かっている訳なので男性的女性消費の価値観を受け入れざるを得ない。

4 結論と考察

ここで話を本覚書の題材となった文章の筆者が、女性に対して非常に辛辣な言葉や攻撃が執拗に繰り返しているという当初の問題に立ち返る。好意的に捉えれば、男性的女性消費価値への攻撃が伴っているからということになる。しかし、これでは男性プロデューサーBへの攻撃的な言より、女性アイドルに対して2倍も攻撃的な言がなされていることを十分説明できていない。不足している説明を補うと、それは筆者はミソジニー、ミソジニストであるということだ。

ミソジニー; misogyny は
misos; hatred 強烈な嫌悪
gune; woman 女性
というギリシア語から1600年代に成立した英語であり、英字辞書では、dislike of, contempt for, or ingrained prejudice against woman.
とあるように、女性に対する嫌悪、侮辱、染み込んだ固執を指し示す言葉だ。

ミソジニーに関して詳しく知りたいという方は、上野千鶴子氏が研究を行っているので、詳しくはそちらを参照して頂きたい。
また、知っておくべき10のタイプのミソジニスト男性 (見付けたら指摘しましょう!)という翻訳を掲載したnoteではミソジニストのタイプを例示しているので、具体的なイメージをつかみやすいであろう。これに基づけばManarchists, Mactivistsという類型があてはまる。

本題に戻る。なぜ筆者は「本人が望んでる撮影だとしてもアイドルが尻だしたり、胸を出したりヌードまがいの事やるなんて、絶対に許せないしこんなもの国連の人権理事会に出していい案件だと思う。おしゃれで誤魔化すな。単なるセミヌード写真集である。」と言いながら、一見するとそれに相反する女性アイドルへの攻撃を執拗に行っているのか?
ミソジニスト以外の説明を試みる際、精神分析の心理学者であり、哲学者でもあるエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で

大きな権威に隷属したいというマゾヒズムと、自分より愚かな人間を支配したいサディズム

と提示した枠組みが非常に有用になってくる。なお、E. フロム(1941)日高六郎訳(1951) 自由からの逃走, 東京創元社.を用いた。
フロムは、宗教改革を行ったマーテイン・ルターは既存のカトリックを打倒しようとしているのは自分自身が支配者となりたいサディズムを有していると説明していた。ゆえに一見すると矛盾するカトリックの打倒と農民への冷淡(ルターは自分より階級が低い農民に対しては非常に冷淡であった)は、こうしたサディスティックさにおいて実は同じなのである。

この枠組みを今回の女性アイドルの性的消費(女性差別)構造への抗議文に当てはめると次のような深層心理が筆者にはあると思われる。

自分より愚かなアイドル(女性)は支配したい。しかし同時に自分が支配したい女性を既に支配している男性アイドルプロデューサーは打ちのめしたいし、社会的に排除したい。

私が当該ソーシャルメディアに投稿された文章を見た時の強烈な違和感を、客観的に説明しようと試みたところ4時間近い時間と4200文字を費やすことになった。無視されがちな一つの主張に内包する要素を分解し、賛成か反対かの二極化反応に疑問を呈し、多義的な見方を提示することが目的であると冒頭に目的としたのは、ここで到達したように一見すると女性の権利改善を主張する人物のなかにある女性差別を炙りだすためである。それでいて主観的記述ではなく、客観的記述を通して読者に考え、本覚書を自己において批判できるようにした。(ここでいう批判は、非難に同義されるものよりドイツ語でいうところのKritik、批評に近い)また、記すまでもないことだが、繰り返し書かれる「頭の悪い子は正直」という言葉は、西洋圏での「金髪美女はおつむが弱い」という女性蔑視と質的には同じである。

最後に、女性アイドルファンの男性にも、ヌードやランジェリー、水着といった要素を排除してほしいと願っている人達はたくさんいることをその当事者として綴り終えることとする。

ここまで読んで頂いた辛抱強い読者には心から御礼申し上げる。


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