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小児哲学についての総括(2020731)

・思想の段階的昇華

 皆さんこんにちは、取るに足らない者です。
私事により日が空いてしまったことをまずはお詫び申し上げます。私には本当の哲学の姿を伝導し、ネットという記憶庫に遺すという使命があるのにも関わらず、全く本当に取るに足らない者ですね(笑)

 今回は、私の今まで記してきた報告書の総括ということで、特に実践的な話が出来たらと考えております。
 特に、中高生は必見の内容となっていますのでお見逃しのないようにお願いしますね。

 今回のタイトル、「思想の段階的昇華」とありますが、これは一体何のことなのでしょうか、、、
 では毎度の如く、皆さんに質問です。
 「宗教を見下してはいませんか?」

 おっと、私は宗教勧誘をするためにこれを書いている訳ではないので悪しからず。
 ここでいう「宗教」とは胡乱げな新興宗教ではなく、「キリスト教」や「仏教」、「イスラム教」に代表される超有名なものです。そして私が質問したのは、それらを信仰し、礼拝、断食、修行などに勤しむ方々を無意識に見下してはいませんか?ということです。

 確かに、自分の仕事や社会的地位に執着している所謂「意識高い系」の方からすれば、日本で言うと「僧侶」の方々は社会に寄与することもない、生産性のない人間に見えるのかもしれません。もしくは、修行といって山に入り、また寺で経典を読誦する人々を「時間の無駄」といって自分は「ビジネス書」を貪るのかもしれません。

 私は今までで多くの人生経験を積んだ、とは言い難いですが、確実に「思想の段階的昇華」を経験してきました。勿論、「怒りや欲望など現代社会で忌み嫌われる属性を捨て、目上に従順になることこそが全てだ」という思想に至ったこともあります。また、「成功者の真似をしておけば自分も成功できるし、社会的地位も獲得できる」なんて思想に至ったこともあります。その上で私が一つ感じたのは、「宗教を信ずる心こそが思想の極地」だということです。

 さて、ここで登場するのが「思想の段階的昇華」です。大体、物心がついた頃から人間は自分の行動の法典となる「思想」を持ち始めます。そして、思想の段階的昇華とはこの「思想」が年齢と共にどう変わっていくのかということを大系化したものです。

 まず、物心ついて間もない頃から大体小学校入学まで、この時期は「欲望に忠実な状態、理性よりも本能に比重のかかった思想」です。これは言い換えれば「人間の脳にシステムされた、自然な学習体制」です。よく教育学で言われるのはこの時期により多くの知識に触れさせると育ちがよくなるということですが、これはこうしてみると当たり前のことなんですよね。

 次に小学校入学から中学校卒業まで、現代ではここから義務教育による矯正が始まってしまいます。それによって、歪んだ哲学を用いて続々と本能が理性へと変換され、失われていってしまうのです。その結果、思想はどういったものになるのかというと「欲望をある程度抑止した、不本意な行動も重要だ」というものになります。それと同時に「異性からの目」を気にし始める時期でもあります。この時期に情緒が不安定になる子供が多い理由は、この二律背反の思想が拮抗するからなんですよね。

 そして15~成人迄、高校に入学する方もいれば、就職を考える方も出てくる時期ですね。ここで、遂に人間の本能を殆ど捨ててしまう人が大多数出てきます。現代のインターネット普及率を鑑みれば尚更ですよね。その結果、思想は「社会に馴染む事こそ人生を成功させる為に最も重要なんだ、もっと成り上がって他人に尊敬される人間になりたい」というものになります。そして現代の汚れきった哲学を学び、そして学びを好きになるのではなく「ゼネラルな知識を持つ自分を好きになってしまう」。

 そんな野心に燃えた若い時代の思想も、結婚を経て一変してしまいます。これが俗に言う「不惑」というものですね。結婚、つまりもう性欲に忠実に生きる必要がなくなった、言い換えればつがいを見つける為に東奔西走する生活が終了したということになります。本来、生物の多くは出産と共にその生を満了し、幕を閉ざすのですが人間はそういう訳にはいかないのですよね。よってここからどういう思想に変化するのかというと、「疲れたから老後はゆっくりしたい、その為に今暫く金稼ぎをしよう」「しっかりとした子供に育てる為に自分も勉強しなくては」といったものになります。そこに野心はなく、自己中心的な考えは喪われています。

 そして、現代社会ではこの思想の領域にたどり着き、緩やかに人生を終えることこそが文句なしの人生だと言わんばかりの沙汰ですよね。確かに、自分の周りの事、つまり視野が狭い場合はそれで十分だと思いますが、人類単位で考えた場合、それでは何の役にも立ちません。従って、思想の極地に至るには「不惑」ではまだ足りないのです。

 そして登場するのが、「宗教」です。日本で言うならば仏教ですかね。例えばテレビで寺に修行しに行く子供の密着などが放映されると、恐らく大抵の人が茶の間で「外面では微笑ましく」それらを嘲笑うでしょう。何故ならその「大抵の人」は悪い意味で社会に馴染んでいますからね。
 しかし、私はあらゆる思想の形態を旅して、宗教の存在意義というものが途端に高尚なものに見え始めたんですよね。報告書5で私は「クリティカルシンキングを身に付けるには神に触れるべきだ」と記しました。やはり、「神」という概念を「胡散臭い宗教的価値観」や「中二病への軽蔑」というフィルターを取っ払い改めて考えてみると、人類2000年の叡知の結晶なんですよ。「弘法太子」や「一休宗純」など有名な僧侶は勿論、今までの歴史の中で「神」の定義に関わった人々は恐らくその人生の中で「不惑の思想」の境地には辿り着いていたと思います。それを以てして尚、自分の思想に満足がいかなかった、だから神に触れ、自然に触れ、「かつて本能に忠実な思想を持っていた自分」に回帰しようとしたのではないでしょうか。

 どうですかね、現代人は何かと先人を見下しがちですが、それは単に「先人の肩車に乗ることで広い範囲が見渡せるようになった」だけのことだということがよく分かりますよね。多分、今の現代人と先人の方々を丸々とっかえひっかえし、先人を現代の進歩した技術に触れさせた時、「文明は今と比べ物にならない程に進歩する」でしょう。何故なら、先人は「汚れた哲学に触れていない」からです。人間が持ち合わせる哲学の本質をよく理解し、「本能的に」更なる思想の発展に尽力し、「宗教」を作り上げたのです。我々現代人が人生100年をかけて思想を昇華させようとしたところで、人類2000年の叡知の結晶には敵うはずがありません。だからこそ、私はもっと「神」という高尚な概念に触れ、自分の中の哲学を育ててほしいと思っているんですよね。

・嘯風弄月こそ至高の学びである

 皆さんは嘯風弄月(しょうふうろうげつ)という四字熟語を聞いたことはありせんか?嘯風弄月とは「風に嘯(うそぶ)き月を弄ぶ」と分解できるように、「風に吹かれて詩歌を吟じ、月を眺めて誉め称える」という意味を持つ言葉です。そして私はここに、現代社会において回帰すべき価値観があると考えます。自然の風流を楽しむ心というのは、人間の脳に尋常ではないエネルギーを与えます。また、これは私が今まで述べてきた小児哲学とも密接に関係しています。
 では私がここで大人の方に対して「自然に分け入り、風流を楽しめ」と述べた所で現代社会がそうさせてくれませんよね(笑)、自然と触れあう行為が許されるのは悲しいかな、子供だけです。つまり私が言いたいのは子供に小児哲学=哲学的思考癖を「神への想起」によって身に付けさせた後、自然と触れあい、楽しませるという経験を子供にさせて欲しい、ということなのです。人々は皆、子供にパソコンを学ばせたがりますが、私は自然と触れあわせる、それだけで小児哲学、クリティカルシンキングは自ずと芽生える、と考えているんですよね。

 今、これを読んでいる貴方は恐らく子供ではないでしょう。では大人である皆さんは現代社会の怨嗟を食い止める為に、まずは「小児哲学」を「宗教」によって享受し、次の世代が思う存分「本当の哲学」を学べる土壌を作って欲しいのです。そして、お子様がいらっしゃる方は、私のこの報告書の内容を理解させ、今のうちに自然と触れ合う機会を作ってあげて欲しいです。
 それさえできれば、必ずこれからの激動の時代、人類が「脳」を捨てない限り揺るがない人間という生物自体に備わった「哲学」、これを宿した数少ないエリートとして人類に発展をもたらすことができるでしょう。

・報告書のまとめ

 人類の長い歴史の中でも、上記の私の思想に辿り着いた先人は数えきれない程いたことでしょう。そしてその人々が幾世代に渡り作り上げた「脳をアップグレードする装置」こそが「神」という概念だと私は思います。ですから、皆さんも私のこの難解な文章を読み「脳が興奮状態にある」とは思いますが、その興奮した状態のまま、「神」について思いを馳せてみるのもよいかもしれません。

 ご清聴有難う御座いました。


 おっと、何故今まで私が「ご精読」ではなく「ご清聴」と言ってきたかと言いますと、皆さんの脳内に私、「取るに足らない者」が召喚されていることを期待してのことです。まぁ取るに足らない「哲学」による単なるこだわりですので気にしないでください(笑)