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つらつらと自己紹介(大学受験終了まで)

noteを書いているときは心が穏やかになっているような気がするので、ここで自己紹介でも書いてみたいと思います。

2001年生まれの大学2年生で、年だけは20歳になってしまいました。精神年齢は高校1年生~2年生くらいな気がする。
大学では日本史を専攻していて、明治維新以降の国民意識とか民衆史とかに興味があります。歴史哲学も面白いなあって思います。夏休みに関連文献を読みたいと思っていたけど結局1冊も読んでいません。大学生あるあるだと思いたい。

小学生の頃から目立つことが好きで、基本的に〇〇長なる役職は全て務めてきました。友達も多かったし、先生からも好かれていたので小学生時代はイージーモードでした。模試の結果などを通して、勉強もよくできる方だと小学生ながらに自覚していました。
中学受験をして御三家の一つの中高一貫校に入学しました。ここで初めて自分よりも勉強のできる人間に直面して、12歳のプライドが打ち砕かれました。けれどその友人たちが本当に本当に素敵な人たちばかりで、偏差値とかいう数値の無意味さに気付きました。ここで「謙虚」という姿勢を少し得たように思います。非常にいい経験でした。
私には天邪鬼なところがあります。みんなが右へ行くなら私は左へ行く。そんな感じで、みんなが早慶を目指すと言うので、私は迷わず国公立大学を目指しました。高1,高2の頃、みんなが「今は勉強はそこそこに部活を頑張る」と言うので、私は逆に死ぬほど勉強を頑張りました。どの科目も90点以上を目指しました。家に帰ってからもずっと勉強していました。study plusの記録が伸びるのが楽しくて楽しくて仕方なかったです。
そして高3になり、みんなが本格的に勉強を頑張り始めた時、私にはもう勉強のエネルギーが無くなっていました。いわゆる息切れです。大学合格という最終目標はもはや見えていなくて、毎日のようにある小テストを何とか騙し騙しで乗り越えてきました。それで乗り越えられるのも10月まで。11月から指定校推薦組の合格が学年に流れ、完全にここで私の戦意が消失しました。今思えば彼女たちはエネルギーの分散のさせ方が非常に上手でした。私は0か100かしかエネルギーの使い方が分かりません。そういう面でも彼女らが指定校推薦という効率の良い合格の仕方をしたのは至極当然なのです。しかし人一倍嫉妬深い私は、彼女たちに対してもう恨み妬み嫉みの毎日です。廊下ですれ違えば殺意が湧いていたし、大学へ提出するための課題をしている推薦組に対して何回殴る妄想をしたか。そんな感じで毎日負の感情を抱え込んでいった結果、私が死にました。ある日突然学校へ行けなくなったのです。朝のアラームを聴けば死にたくなり、玄関で革靴を履こうにもうまく履けない。かかとを踏んだ状態で何とかドアを開けようとすると推薦組の笑い声がどこからともなく聞こえてきて、過呼吸になって学校へ行くどころじゃない。母親に肩を抱いてもらって自室へ戻り、これが人生で初めての鬱病となりました。正確に言うと病院で診断してもらった訳ではないのですが、あれは絶対に鬱病でした。

毎日自室のベッドに横になり、霜降り明星のオールナイトニッポンを聴く。内容なんて一切覚えていません。日常生活の音を聞きたくなかったのです。何を食べていたかも覚えていません。本当に記憶がありません。ただ覚えているのは、強烈に死にたいという感情だけです。

ですが受験は迫ってきます。これはうちの高校の良くないところなのですが、「最低でもMARCH」という空気がありました。いや、MARCH行ったとしたら「あ、受験失敗したんだな」という目で後輩から見られるのです。私はその恐怖から、体調がいい日だけでも塾の自習室へ行って勉強を進めていました。そのおかげか、最後の河合塾全国模試の結果は1番良かったです。第一志望はB判定、それ以外の私大は余裕のA判定でかなり嬉しかったのを覚えています。英語の偏差値は68、日本史は72。当時なんて数値が全てなので私は大満足で家に帰りました。嬉しかったので家でも何度も見返していました。しかし見てはいけないところを見てしまったんですね。校内偏差値という欄です。全国の受験生の中の位置づけではなく、同校の同級生の中での位置づけを表す欄です。英語は47、日本史は45でした。もう死にたくなりました。こんなに頑張っても私は偏差値50もいかないんだ、と。今思えばその同級生たちと志望校が同じ訳では無かったので無視すれば良かったのですが、そんな冷静な思考はできませんでした。その模試の結果表はその場で破り捨てて、また布団にくるまりました。いつもよりも強い「死にたい」という気持ちを抱えながら。
腐っても国公立志望だったため、こんな事件があってもセンター試験を受けなければなりませんでした。目標得点は8割5分。センター3日前に「今年はもう受けられないかもしれない」と母親にこぼして家族会議になったこともありましたが、センター前日に解いた過去問では何とか8割3分をマーク。これはもしかしたらあるぞ、と思って本番に臨みました。
本番。見事に爆死しました。結果は7割ちょっと。しかし爆死したのは私だけではなく、全国の受験生全員がそうでした。全予備校速報が難化と報じてくれたので、その場ではそこまでショックは受けませんでした。
まあ私立が1つでも受かれば。そんな気持ちで私立の入試ラッシュを迎えました。ですがやはり秋の時点の勉強不足が響いたのか、不合格の嵐。「ここ落ちたら全部無理だよ」とチューターに言われていた大学も落ちて、あーあ、死にてえなと思っていました。
でももうやるしかない。1つも受からなかったら浪人することになっていたので、この地獄を引き延ばしたくなくて最後の方は背水の陣で勉強していました。
ここで頑張れたのは3人の友人の存在があります。やはり最後は友人なのです。学校の自習室に通っていたのですが、私立の合格発表の時期に合わせてだんだんと自習室からも人が減っていきました。そして最後に残ったのが国公立受験組のこの4人だけ。6年間同じ学び舎にいたとは言え、正直ちゃんと話したことも無いメンバーでした。ですがこんな状況ですからもう強い仲間意識が芽生えている訳です。私達は勝手に自分たちを「猛者4」と呼び、昼休みには一緒にご飯を食べ部活終了のチャイムの音で自習室から駅まで推しの話をしながら帰りました。今振り返ってみても、どうしようもないくらい尊い思い出です。
このときも私の鬱症状はありました。しかしどんなに勉強したくない時でも「3人が頑張ってるから」と思えば、自分を鼓舞して問題集を開けたのです。

そして国公立2次試験を終え、私は無事合格しました。試験の手ごたえから可能性は半々だなと思っていたので、自分の番号を見た瞬間は喜びというよりも「ああ、自分に勝ったぞ」という達成感で胸がいっぱいになりました。母親と父親がバタバタと部屋に駆け込んできて目に涙を溜めながら喜んでくれたのが昨日のように思い出されます。
猛者4のうち、1人だけは不合格だったのですが、今はみんなそれぞれの大学へ通って自分たちのしたいことを勉強しています。

大学への合格が決まると同時に、私の鬱症状はスッと消えて無くなりました。受験というものがどれだけ私の心を刺していたのかが分かりました。





自己紹介のつもりが、高3の鬱症状をつらつらと書いただけになってしまいました。過去の思い出ってどうしても美化されてしまいますね。
今の鬱の症状もいつかこうやって軽く書けるようになったらいいなあ。

やっぱり文字を書くと私の心は穏やかになるようです。逆にこうやって締めの文章を書いていると、心が終わりを察するのか、心臓がバクバクしてきました。

もうそろそろ寝ます。母親と軽く話してから今日もオールナイトニッポンを聞きます。その前にショコラBBも飲んでおきます。

おやすみなさい。明日は穏やかで生きることができますように。