『さよなら絵梨』感想と備忘
再読するときに気をつけたい点と感想のメモ書きです。
『さよなら絵梨』『ファイト・クラブ』「シックスセンス』についてのネタバレと勝手な感想を含みます。
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物語に登場する要素
"演出"される情景(現実との相違)
主人公(優太)は映像を撮り、編集をする。
最初は母から強制され、父や絵梨から価値を承認され、その後ライフワークのように過去の映像に囚われる。
撮影も編集も、見たいものを見て、見せたいように見せる"演出"であるという点で、"恣意的なまなざし"だと言えます。
主人公は撮影と編集によって、
「母親」と「絵梨」と「自分」を美化し、
作品の筋書きのために「爆発オチ」にはじまり「 "愛しあう母子" や "若いカップル" や "激昂する父親" というわかりやすい関係性」や「吸血鬼」などのウソを演出し、
事実とは異なる "物語" をフィクションとして切り出していく。
読者はまず "演出" された表側を見せられたあとに、その裏側にあった "切り捨てられた事実" を見せられて、ドキドキしながら作品を読んでいく。
この細かいどんでん返しの積み重ねが楽しい!
同時に、 "演出" の功罪と効用も示していてよい!
3回繰り返されるシークエンス(場面)
"物語"には時間の推移があります。
この作品における時間の推移、
「なにが・どうなったか」を示しているのは、
3回繰り返され、しかしそれぞれ異なるシークエンス(場面)です。
母親を撮る → 作品にする → 爆発オチ → 酷評
絵梨を撮る → 作品にする → 爆発オチにしない → 好評
自分を撮る ( ≒ 作品にする) → 爆発オチ → (現実での読者の感想)
この変化を素直に読むと、
1つ目では自らの癒しのために撮影・編集した作品が他人と自分を傷つけ、
2つ目では絵梨に期待され周囲を見返すために撮影・編集した作品は好評を得たが現実の自分を救うことができず、
3つ目では父と絵梨に示された「優太のキャラクター」の芯にある爆発オチでその後を生きていく、
という変化があるように見えます。
この変化は、
「好きなように作品を作れ 現実を切り取って歪めてしまうだろうけど 誰かを傷つけてしまうかもしれないけど 自分も傷ついてしまうかもしれないけど」
というクソ映画(創作活動全般)礼賛のメッセージにも見えます。
(でも、それだけじゃないと思ってる。)
他にも、
死別への向き合い方
(①では母親の死を自分なりに昇華しようとしたが周囲にはふざけていると思われ非難され、②では絵梨の死をウケる形で作品化したが自分の中にわだかまりが残り、③では家族の死を自分なりに昇華し周囲(読者)から好き勝手言われる)
を読み取ってもいいし、
"編集"という行為がいかに受け手の感情を左右しているかの実例を兼ねた警告として受け取ってもいいし、
他者をうわべで判断することが孕む加害性を学び取ってもいい。
感想
どんな作品であれ、感想は人それぞれだと思っとります。
作者の主張や作品のテーマに沿っている必要もないと思っとります。
なので、好きに書き散らかします。
主に2点。
現実に爆発オチはないが、フィクションの爆発オチはスカッとする
爆発オチはフィクションの特権だと思う。
だって俺たちの人生に爆発オチなんてないから。
モニター越しの爆発は軽薄で、バカみたいで、ギャグにすら思える。
現実だったら、爆発なんて見たらびっくりする。
でもフィクションの爆発はそうじゃない。私たちの日常からは切り離されているからこそ、そう思える。
爆発オチ、お話自体がめちゃくちゃになっちゃうダメなオチの例として挙げられがちだけど、間違いなくスカッとする。俺は。
でも俺たちの人生に爆発オチなんてない。
他人からすりゃ面白くもないしょうもないことでめっちゃ傷ついたりするし、だいたいの問題は解決なんてしないし、陰湿で地味な毎日は続いていく。どうしようもない。
だからこそ、フィクションの中くらい、爆発オチでクスッと笑ってスカッとしたいよ。
爆発オチは、言葉にできないいろんなモヤモヤを、一瞬だけでも吹き飛ばしてくれるような気がするから。
綺麗な物語にはならないかもしれないけど、ぶん投げたっていいんだって、ちょっと励まされた気になるから。
美化した記憶を振り返っていきたい
この作品ではカメラが現実を恣意的に切り取る。
先述の3つのシークエンスではそれぞれ「母親」「絵梨」「自分」を美化している。
いずれも事実ではない。
フィクションだ。
でも、だからこそ、強い力を持てる。
美化された記憶や編集された物語は人を前に進ませる助けになる。
母親との日々も絵梨との日々も、たしかにあったのだし、残された人は、残された人なりのやり方で思い出していくほかない。
忘れたり、美化したりしながら。
それって、現実でも同じじゃない?
カメラでなくとも、僕らの肉眼も記憶も、
自覚の有無に関わらず、現実を恣意的に切り取っている。
ありのままを覚えていたいと強く願っても、かつての風景はさらに歪んでいき、ぼやけ、そして忘れてしまう。
だったら、できるだけ、綺麗なものを見ていきたいし、綺麗に思い出していきたいよ、オレは。
備忘:おまけ
この作品自体は「フィクションの中での事実」か否か?
絵梨はほんとに吸血鬼なのか?
この作品全体が「優太が編集した映像作品」なのか?
ぶっちゃけ、どっちでも読めるようになっていると思う。
自分は「フィクションの中のフィクション」(優太によって編集された作品)として読んだ。
理由は3つ。
終始、表紙のスマートフォンで撮られた映像を思わせるコマ割りが続く。よって、作品全体を"編集されたもの"として捉える
P174に絵梨はいない。
爆発オチ。
なお、P177の絵梨は、この画角が初出のP44とほぼおなじポーズをしている(足だけ組み変わっているから、絵梨はホントに吸血鬼なんだ!と読んでもいいし、絵梨はたしかに死んでいて後から編集したものだと読んでもいいんじゃないの)。
この作品は、作中言及される映画『シックスセンス』とおなじく、いわゆる"信頼できない語り手"によって編集されたものとして描かれている。
なので、この作品の視点自体が編集されているのだから(そしてすべての作品は編集されているものなのだから)、どっちで読んでもいいと思う。
というか、いくら読んでも"事実"を決められないように描いてると思ってる。
あえて"事実"をぼやかすことで、"編集" の作為を意識させられるから。
「〇〇ってこういうお話だったんだ! おわり」という単純な受け取られ方を避けやすくなるから。
爆発オチはその最たるものだろう。それまでの話を"事実"として読んでいた読者は急に突き放される。自分が読んでたものってなんなの?なにを受け取ればいい?混乱が残る。爆発は、物語を乱暴に途絶させ、"事実"と"フィクション"を混線させる。
とはいえ、フィクションはフィクション。
そして、フィクションは楽しんでナンボちゃう?
自分が読んでどう思ったか、なにを受け取ったかが大事であって、そんな答え合わせせんでもええと思う。
でも、いろいろこねくり回すのもたのしいよね、オレも好き!
『ファイト・クラブ』について
P45で二人が初めて見る映画は『ファイト・クラブ』。
主人公が「理想化された自分」と対立する構図が、この作品と呼応するかも。
現実ってなかなか物語みたいに綺麗には終わってくれない。
でも、向き合っていかざるをえないのよな。
現実に爆発オチはないから。
『さよなら絵梨』というタイトルについて
本作のタイトルと同様に、第2シークエンス(絵梨を撮る)で優太が撮影した作中作品のタイトルも『さよなら絵梨』だということがP164でわかる。
ここでの "さよなら" は、死別の "さよなら"。
しかし、第3シークエンス(作品終盤・作品全体)では、絵梨と映画をまた観ることを拒否して優太は「さよなら」を告げる。
どうしてだろう?
印象的なセリフを見てみよう。
この世には死が溢れている。
誰もが、周囲の人との死別を経験する。
その乗り越え方。
主人公は彼なりのやり方で、爆発オチで、過去の美化された記憶を再生して、乗り越えていくんだろう。
きっと私たちも。
とすると、この "さよなら" は、苦しくて辛くて受け容れがたい過去に対する優太なりの受容とケジメなのかもしれない。
美化と忘却は逃れられない。
生きていくのならば。
それはさみしいことなのかもしれないけれど。
だけど生きていくなら。
挫折する "さよなら" もある。
自殺の "さよなら"。
「メメントモリ 以上優太でした さよなら」と言い残して周囲に嫌な思い出を残すはずだった最初の自殺は、
絵梨との出会いで挫折し、
「死ぬのは思い出の場所にする おわり」と言い残して思い出に囲まれ静かに終えるはずだった自殺は、
作中作品『さよなら絵梨』のなかのセリフとしての「メメントモリ 以上優太でした さよなら」の声とともに現れる絵梨との再会によって再度挫折する。
『ルックバック』や『ファイアパンチ』でも同様に自殺は挫折する。
現実の、誰かの自殺を止めるのはひどく困難で、他者の手に負えるものではない。
フィクションの中の自殺くらいは挫折してほしいなって、思ったりする。
その他:読み返したいこと
・P82の映画なに?
・もっかい読みたいセリフたち
・元ネタになってる映画たくさんあるんだろうから、見たいな~
・ "演出" から読み取れる(かもしれない)こと。
日常が切り取られてフィクションが成立する
≒ フィクションにはログライン( ≒ あらすじ)のような意図がある
≒ フィクションには願いがある(優太は現実を美化して切り取る)
・「ひとつまみのファンタジー」については書かなかった。創作には大事だと思う。テーマを際立たせるために。受け手が昇華しやすい物語にするために。それぞれの現実から距離を取るために。
・現実、死、爆発、撮影と編集、これらの単語からいま連想されるものについては書けなかった。 "物語"の功罪。 氾濫する"物語"を受け手はどう受け止めていけばいいのか。
・"他者への優しさ"については書いたほうがよかったかも。 他者というブラックボックスについて。 他者からの承認について。
メメントモリ
以上感想でした
おわり
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