ひそひそ昔話-その15 受験生に愛を込めて-
柔らかい霧雨が河川敷の芝生に降り注いでいる。絶好の蹴り野球日和と言えるだろう。もちろん皮肉を込めて言っている。僕は芝生を少しむしり取ってはグラウンドに向けて投げた。曇り空にそれは、消しカスみたいに散らばった。
「なぁ、俺たちこんなことしてる場合かな。同級生は大学でサークルに入って、あるべき青春を謳歌してるんだぜ。冴えないクラスメイトが俺より先に彼女なんて作ってたら発狂モンだぜ」
バッターボックスに入った女の子が、ピッチャーからヒットを奪ったことで観客席は盛り上がっていた。僕らは3塁側の、堤防へと続く階段に座りながら試合の行く末を眺めていた。隣に座る相棒とは4月に予備校の同じ理系コースに入学して以来何かと仲良くしている。
「親睦会だよ。浪人生ってのは、学校っていう枠から解き放たれたはみ出しモンさ。だから無理矢理箱詰めして、仲良くやって切磋琢磨してくれってことさ。受験は団体戦。ここで仲間意識を強めようっていう魂胆らしいぜ」
「受験は団体戦、ねぇ」ムカつくぜ、もう。「じゃあどうして、俺だけ負けたんだよ。仲良かったヤツは皆この町から出ていったぜ」
「それは、お前がそもそも参戦していなかったからだ。そして残念なことに、ある程度の境地にたどり着くと受験は団体戦じゃない。どこまでも個人的な競技だということに気づかされる」相棒は、現役時代の僕の無勉強具合を揶揄する。ヘラヘラしながら、同級生と調子を合わせず、大学というのは向こうから自然とやってくるだろうと高を括っていた。
相棒は重そうに身体を揺すって、ケツの収まり具合を探っていた。不合格を知らされて予備校に入学するまでの2週間で、ものの見事に20キロも太ってしまったらしい。まだ新しい自分の身体に慣れていないのだ。
「食べていられるうちは精神衛生も大丈夫だって思っちゃうんだよな。人間、その気になれば簡単に太れる」と、高校の学生証の写真を顔の横に掲げて、比較しながら相棒はよく嘆いていた。
過食症。そう僕は思ったが、もちろん口には出さないでいた。
「ゴールデンウィークに、みんな帰省で帰ってくるんだ。どんな顔して会ったらいいのかわからん」足元の芝生はほとんどむしり取られ、すっかりお粗末に剥げ散らかっていた。これ以上むしり取るところもなくて、僕はむしった葉を細かくちぎることに指先を集中させ始めていた。
「置いてけぼりにあった気分か。そうだよな。自分が現役時代にもっと努力していたら、きっと今頃同じスタートラインで、対等に友達と遊び惚けていられたんだもんな。かけっこは同時にゴールインするもんじゃないんだってのに気づけただけでもマシなほうだよ。浪人ってさ、経験してて良かったって思うやつのほうが大半らしいぜ。やり直しの利く人生ってのは、案外俺たちを思っていたよりも遥か向こうまで連れていってくれるもんさ」そう言うと相棒は立ち上がり、ストレッチを始めた。隣町の高校の指定ジャージが、太ってしまった相棒のストレッチのせいではち切れんばかりに伸び縮みしていた。新しい身体を慣らすのはいいが、服がそれじゃ馴染まないんだよ。
「でも、浪人時代に戻りたいって思うやつは少ないだろうよ」
「かもな。でも、どちらにせよ、やること、やって、前に、進むしかない。これだけは確かだ」イチ、ニッ、サン、シッと前屈しながら、相棒の下着が半分ほどズボンから飛び出している。よせやい。
「博多校に行ったやつがさ、ベッドの下にエロ本隠してたのがバレて、寮長にこっぴどく叱られたらしい。馬鹿だよな、今どきベッドにエロ本って。俺ならもっと…」と言いかけて顔を上げると、相棒は既にネクストバッターズサークルに向かって歩いていた。霧雨が重い遮音シートとなって僕の声は届いていない。
なぁ、おれたち夏にはみんなで寺行って座禅組むらしいぜ。曹洞宗だか臨済宗だか知らないが。
わけわかんねぇよこの予備校。
なにやってんだよ、俺たちは。
いや。
いいや、本当になにやってんだよ、俺は。
手に付いた草を落とし、階段を駆け下りた。僕のウィンドブレーカーは防水に優れていて下着が濡れた感じはしなかった。
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