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ひそひそ昔話-その11 夏のむせ返る蜃気楼の臭いの中に-

部屋には誰かが留守番をしているわけでもないのに、僕は「いってきます」とカラ元気に挨拶して扉を開けた。開けた瞬間、鬱陶しいくらいの熱に包まれる。そしてさらにムッとする臭いが鼻腔を刺激した。動物の臭いだ。我が家の近くには小さい動物園があって、そこにはヤギやロバやウサギなんかがいる。そんなヤギやロバやウサギなんかのニオイが、東からの風に運ばれて僕の鼻腔最上部、嗅上皮の粘膜に溶け込み、その刺激を受けたとある細胞に電気信号を脳みそへと伝えさせたのだ。暗号みたいなその電気信号が脳みそに解読される。即座に「クサイ」と脳みそ内の暗号解読官(僕はスーツ姿の勤勉な男を思い浮かべる)は、解読する。

そして彼は但し書きをする。「なお、このニオイは君には多少懐かしい」と。
そう、この類いの家畜の独特のクサさは、小さい頃の記憶をフラッシュバックさせる。十日ぶりに真夏日を迎えた熱気あふれる東京の隅に蜃気楼でも見たのかもしれない。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
幼稚園を終えて幼馴染の家で遊んでいると、じいちゃんが自転車で迎えに来た。両親は共働きで日中はいない。彼らが帰ってくるまでじいちゃん家で過ごすことになる。自転車の後ろに載せられ、まだ真新しい平和台大橋を渡ってじいちゃん家に帰る。
じいちゃん家の牛小屋には当時3頭の黒毛和牛がいた。僕は母屋の土間から椅子をズリズリ引っ張ってきて、その3頭がむしゃむしゃと食事をするのを見るのが好きだった。じいちゃんは粗飼料(いわゆる草だ)の上に、トウモロコシや大豆などの配合飼料をばらまき、さらにその上から水をかけて牛に餌をあげていた。とてもうまそうに見えた。舌で草を絡めとり、歯茎で噛み切り、奥歯で咀嚼し、そして手巻き寿司程度の大きさに舌で丸めて第一の胃袋へと持っていく。その4つの胃袋を持つ怪物の採食行動は非常に興味深いものだった。

牛小屋の掃除のために、一旦牛をコンクリートの庭に連れ出す。じいちゃんが牛小屋を掃除する間、お腹が満たされた牛は気が緩んだのか、コンクリートの地面におおきな糞を落とす。その上に尿をひっかける。牛小屋の掃除を終えたじいちゃんは彼らを部屋に戻すと、彼らが地面に落としつけた糞尿のためにまたも掃除に勤しむことになる。大きなスコップで糞をかき集め、肥溜めに捨て、尿はホースの勢いの水で洗い流した。
飼料のにおい。反芻をする牛の目の輝き。蹄がコンクリートを削る音。糞の塊が体高130センチから放たれコンクリートの地面に叩きつけられる音。たかるハエの羽音。蒸し暑い風に運ばれてやってくるムッとするニオイ。スコップがコンクリートとじゃれあう金属音。黙々と作業をするじいちゃんの姿。そういった一度感知した感覚は20年経っても消えない。
じいちゃんは、家畜を愛情深く世話していた。

幼稚園がない日は一日中、じいちゃんとばあちゃんが農作業する傍ら、田んぼの隅っこにゴザを敷き昼寝ばかりしていた。昼寝に飽きると用水路でアマガエルを捕まえた。腹が減るとばあちゃんが「わらばくん、昼飯よ」と言って手招きをするのだ。虫かご一杯のアマガエルを見つめながら、アルミ箔の包みを剥がしておにぎりを食べる。おかか味。じいちゃんは寡黙だった。ぺろりとおにぎりを食べるとまた農作業に戻った。
それが終わると、僕は運搬車の荷台いっぱいに積まれた干し草に埋もれながら、あぜ道を揺られた。そんな幼少期。僕とじいちゃん達だけの思い出だ。


だがそんな風景はもうとっくの昔に失われてしまった。僕は寂しさひとしおに色んなことを思う。じいちゃんの牛のために獣医師になりたいと考えていたことも思い出す。結局それは叶えられなかったけれど。大事に育ててきた牛を、じいちゃんは身体を悪くしたために手放したのだ。僕がなんとかしてあげたいと思ったのはじいちゃんの牛であって、他の誰かの牛ではないから。
牛だけじゃなく、トウモロコシ畑も手放した。田んぼも手放した。僕が進路に迷って、とりあえず農業系の学科を選んだのも、じいちゃんの農作業に勤しむ姿が脳裏にあったからだと思う。なにか手助けできるって思ったんだろうか。
今、僕はじいちゃんのそばから遠く離れて暮らしている。描いていた地図にはない随分と遠い場所で。今、じいちゃんは牛小屋の前に椅子を出し、AMラジオを聞きながら一日を過ごしている。幼い僕を膝に置いて水戸黄門やクリント・イーストウッドの西部劇映画なんかを見てたときとはたぶん随分と見えているものが違うかもしれない。時々電話をかけると呂律のまわらない喋り方で僕を激励する。なんと言っているのか正確にはわからなくて、なんとなく相槌をうってしまってごめんって思う。でも、なんとなくどんな内容のことを言っているのかはわかるのだ。
「元気にしているか」「がんばれよ」だ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

夏の容赦ない日差しに、梅雨のアスファルトがゆらゆら揺れる。風がニオイを運んできて鼻腔を刺激する。僕はそれを合図に蜃気楼を見る。寡黙で、黙々と牛の世話をするじいちゃんの姿を。
僕はその姿を大切に胸の内にしまい、それから、昨夜7個の卵を割って作った玉子焼きのことを思い出す。昨夜、12時に賞味期限切れを迎えた7個の卵。捨てるのももったいないのでまとめて焼いて、朝食べようと冷蔵庫にしまっておいたのだった。すっかり忘れていた。
今日は真夏日。賞味期限切れの卵。腐ってないか怪しくて不安だ。だが、焼いて、冷蔵庫にしまってるんだから大丈夫だよなぁって信じるのだ。
そう、信じるしかないんだと思うよ、じいちゃん。

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