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【断片小説】フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン

キッチンの上で、朽ち果てつつある古代の塔のように積み重なった、そのインスタントコーヒーのカスを見るにつけ、私はほとほと嫌になりつつあった。決まって一日に二つか三つずつ、そびえ立っていくインスタントコーヒーの塔を解体しごみ箱に捨てるのは、いまではすっかり私の朝の役目になっている。雨上がりの洗い立ての朝に(とはいってもすでに昼前だが)、彼の家に来てまずやることと言えばこれだ。おはよう、も言っていないのにこれ。どうせ昨夜もコーヒーを淹れながら夜更ししていたに違いない。そのようにして強制的に眠れなくなった夜を後悔し、また恐れて、無理やり眠ろうと度数のきついお酒でも飲んだのだろう。シンクの隅で横たわるショットグラスがほのかにウィスキーの香りを漂わせ、昨夜の過ちを示唆している。

小さいビニール袋にかすやキッチンペーパーやスティックシュガーのゴミなんかを放り込みながら、視界の隅に、手練れの狩人に狩猟された、巨大な熊のような身体がソファーベッドに横たわっているのを確認した。傍らの丸テーブルには画面の消えたノートパソコンとマグカップが冷え冷えとした沈黙を纏っている。狩られて、横たわってはいるが、まだ彼は死んではいない。眠っているだけだ。死んでいるようにも見えるけれど。起こしてはいけないよ、という沈黙の強制がそこにある。


 私が思うに深夜十一時にドリップされるインスタントコーヒーなんてものは、毒薬そのものだ。世界で唯一の安寧とも言える睡眠を脅かし、精神を摩耗させる。その毒は、健やかな青年にとって貴重な資本ともいえる身体を急速に侵していくように思える。私はその朽ちていく速度がいささか速すぎると思う。それについていけないことがとてもいやだった。その退廃加減が実に恐ろしかった。ゆっくり、じんわりと時間とともに、十年の歳月なら十年分朽ち果てていくからこそ、老いという抗えない未来に諦めて寄り添えるというのに。

 私は彼の身体が好きだ、というと少し語弊があるかもしれない。けど好きだ。というのは、スポーツによって緊張し、たくましく引き締められていた時代から、幾分か筋肉はたるんでしまってはいても、首筋や二の腕、ふくらはぎなんかには力強い意思が宿っているように感じられた。背中やお腹周りにいくらか脂肪が定着してしまっても―それは私がひっきりなしにグルメデートに連れて行かせたり、手料理をふるまってきたからだが―ふれるだけで強い意志を感じることが出来た。でも、今感じ取ることが出来るのは諦めの悪いしこりみたいなものだ。十二月に降り積もる雪のように背中やおなかまわりにどっぷりと脂肪がついている。その脂肪がしこりを幾重にも包み込んでいるとしても、私にはわかるのだ。彼は疲れている。先行き不安な真っ暗闇の中で意地だけで何かにしがみついている。何かに振り払われないようしがみついてはいるけれど、それもギリギリの状態なんだ。

 私は夜一緒に寝るときにはいつも、その首筋から二の腕を通り、ふくらはぎに至るまでを指で丁寧になぞりながら慰めた。「もういいんじゃないの?」と。がんばらなくていいよ、と。諦めていいんだよ、と。手放してしまえ、手に入れようとしてるものを。
 とは言っても自暴自棄になっていいということではない、とは思う。コーヒーのかすの積み重なりと降り積もった脂肪では、流れる時間も重みも意味合いもまるで違う。カスは退廃性の象徴で、脂肪は私との幸せの象徴でしょう? 不健康な太り方しないで。全部意味合いが同じになってしまうでしょ?
 


 散らかった服や雑誌を整理していると、その物音に気付いたのか彼が目を覚ました。おはよう、と彼は言った。
「おはよう。ねぼすけのくまさん。いい夢見れた?」ベッドに腰かけて尋ねた。
 彼はしばらくそのまどろみのなかに、夢の断片を探し求めていたようだったが首を振った。彼の見た夢はそうして散り散りに飛んで行ってしまった。
「あのさぁ、こうやってたまに空いた時間をぬって会いに来てるんだよ。さっさと起きて。顔洗って、歯磨いて、服着替えて。寝ぐせがひどいならシャワーでも浴びて。朝ごはんでも昼ご飯でも作って食べようよ」
「母親みたいだ」人差し指の甘皮をつつきながら彼は言った。面倒なことを言われると彼は決まってそんなことをする。相手の気持ちを逆撫でさせるのが少しばかり得意なんだろう。
「あなたがそうさせてるんじゃない。母親じゃない、対等な彼女がほしいのなら、私にいい加減こんなことさせないで」畳み終えたばかりの下着を彼の目やにのついた顔に思いきり投げつけた。
「ますます母親みたいだ」自分の下着が頭に被さった滑稽な姿のまま彼は呟いた。前に一緒に見たバットマンに出てくる悪役みたいな姿だ。確か、スケアクロウとかいうふざけた悪役だ。
 それはともかく、むかつく。さすがに腹の立つ言い分だ。
「ごめん、悪気はなかったんだ」頭に被さっていた下着を外し、ようやく私の分かりやすく怒った態度に気づいたのか、すぐに謝りはじめた。それでちゃらにしようという気だな。

私はこれまで少し、というかあまりにも献身的すぎたのかもしれない。というより、奉仕活動に勤しみすぎだ。確かに彼は自信や自尊心やそういうものをないがしろにしてしまうくらいの危機に直面しているのだから、優しくしてあげなければならないのは仕方のないことかもしれない。でも、恋愛ってそういうものだったっけ? 
私は、なにか見間違っている?


「私、フミくんのそういうところ嫌いだな。そういう投げやりでデリカシーが猫の舌ほども無くてさ」彼はこの世の終わりとでも言うような顔をした。
「ごめん。僕が間違ってたよ。ちゃんと起きて、顔洗って、朝ごはんもちゃんとつくる」
 私はキッチンの方ですっかり朽ちたインスタントコーヒーの塔を睨んで応えた。彼もこの目線の行き先に気づき、バツの悪そうな顔をした。
「はい。それも、気をつけます」
 私は、それでも眉間に寄せた皺を緩めない。私があなたの今直面している特殊性ゆえの悩みについて真摯に対応しているのだから、私の特殊性ゆえの悩みについても解消してくれてしかるべきだ。

「どこか連れていくよ。今日は、晴れてるだろ。君の好きなとこに連れていくよ。どこがいいか言っておくれ」
「月」私を月に連れてってくれるくらいの気持ちは持ってるの?
冷たく、金属でできたチェスの駒でも盤上に置くみたいに言うと、彼はしまった、と言いたげな顔をした。それから短いため息をついて目やにをこすって落とした。
「やれやれ。僕らはロマンスの最中にいるんだ。仰せのままに、かぐや姫」
こんな幼稚で、ロマンチストでユーモアなやりとりは、恋愛って感じがする。成長や進歩がない堂々巡りな分、ぐるぐる自分の尻尾を追いかける子犬のように無駄で無意味でパワフルなエネルギーに溢れている。あ、でも子犬はいつかは大人の犬になるっけ。それに子犬みたいな可愛げなもんでもないな。自分の尻尾を呑み込もうとしている蛇みたいな、そういうの。


 もちろん、彼が連れ出してくれたのは、青空に上手く馴染めず、所在なさげにひっそりと浮かぶ本物の月ではなかった。近くの古ぼけた、今にも崩壊寸前の喫茶店だ。レンガ造りのその喫茶店は、絶妙なバランスでその身体構造を維持しているようだった。転びかけた老人のように危うげだ。一つレンガを抜いてしまったら、一気に崩れ落ちてしまう。世界最高難易度のジェンガ・ゲームだ。
大きな丸い窓が建物の二面にくり貫かれていている。昔、夜二人で散歩していた時にたまたまこの店を見つけ、不時着した宇宙船みたいね、なんて言って笑ったものだ。


店の中にはマスターが趣味で大量に収集したレコードとたくさんの名前の分からない銘柄の外国のお酒が並んでいる。オーク材のカウンターが、初秋の陽光を照らし返している。店内でかかるのは、往年のジャズやクラシックの名曲ばかりだったが、時折換気でもして部屋の空気を入れ替えるように、ハードロックが流れていた。今となっては無害なハードロック。社会に対する反抗力や強い意思を失いつつあるハードロックだ。
その歌詞の大部分がドラッグやセックスについてのことだとしても、その生々しいまでの欲望は時の中で、フィルターをかけられたかのようにぼんやりとしていた。

私たちはこの不時着したままの宇宙船の中からどこへ行けるのだろう?



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