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ジョーがいた日・1998年8月23日のタイホアヒン(ロッキーリン対ワンディー戦、辰吉対アヤラ戦)


1998年の8月、深夜の工場の製造ラインなどの、短期の仕事で貯めたお金を持って、タイへ出かけた。とりあえず海に行ってみたいと、ホアヒンに向かった。ホアヒンはバンコクから南に200キロほど下った海沿いの街で、バンコクから東へ向かう別方向には有名なリゾートのパタヤがある。当時のパタヤは、今よりもいかがわしく危険な印象があり、ひとりでそちらへ向かう勇気がなかった。

ゲストハウスなどで知り合って「じゃあ〇〇まで一緒に行きましょうか」と旅連れができて、行動するパターンもあるが、この時は旅連れもおらず、静かで比較的安全なホアヒンが良いと判断した。この時が、半年ぶり、二回目のタイ訪問だったと覚えている。

バンコクの南バスターミナルから出発する長距離バスで4時間も揺られるとホアヒンに到着する。中心街の寺院の前でバスから下ろされるが、強い日差しが身を突き刺す。バンコクよりも明らかに暑い。

カオサンロードのゲストハウスに大きな荷物は預け、軽装での小旅行だった。以前の旅行で一緒だった、旅仲間の秋本君が教えてくれたゲストハウスは寺院から歩いて少し距離があり、重いバックパックを背負って動き回るには辛い暑さで、メインのバックパックは持ってこなくて良かったと実感した。

オーナー一家の住処も一緒となっているゲストハウスは木造二階建てで、20部屋ほどが旅人向きの部屋となっている。マダムと呼ばれる50~60代の女性が何人かの若いスタッフを雇い、仕切っている様子だ。「部屋は空いていますか」と尋ねるが、大抵は空いている様子だ。100バーツの個室を借りることにした。

70代、、もう80代に届くかという高齢の大柄の欧米人男性は受付のフロアーの長椅子で、色の黒いタイ人女性とビールを飲んでいて、「ヘイユー、ジャパニーズ?」とか声を掛けられる。

よく聞き取れないが、もう50代と思われる、連れのタイ人女性も「コンニチワ、ニホンジンデスカ?」と笑って話す。年代的にベトナム戦争の元兵士だろうかと感じた。

というのも、当時レンタルビデオ店で働いていた際に「7月4日に生まれて」「ディアハンター」「プラトーン」などのベトナム戦争を扱った映画をよく見ており、その映画のシーン頭に浮かぶ。ベトナム戦争で、アメリカ軍の保養地となって発展したパタヤ、もちろんホアヒンも少しは影響はあっただろう。

映画では除隊した兵士が、タイかベトナムかの歓楽街に向かうシーンがあった。大柄の欧米人に、あなたも元兵士ですか、とは聞かなかったが、ホアヒン滞在中、毎日受付の長椅子に座ってこのタイ人女性といつも一緒にニコニコしていた。

***

到着した日に、ビーチに出て海で泳いだり、街をぶらぶらしていると軽トラを改造したような街宣車が「タイボクシング、タイボクシング、サタデーナイト」と言ってゆっくり走っているのを見掛けた。

入場料250バーツ、何人ものムエタイ選手の写真が配置された大きなポスターを貼ったパネルが荷台にセットされている。日付だけは付け替えることができるようになっており、「22 SAT」と 記されている。その日付は、ちょうど今日じゃないか、と18時から観に行ってみることにした。会場はゲストハウスでマダムにも聞いた、すぐ近くのムエタイジムとのこと。「ホアヒンボクシングスタジアム」と街宣車にはあったが大丈夫だろうか。

会場のジムは奥まった路地にあるが、路地の入口で興行のポスターがあり、ジムのスタッフらしき人が案内している。路地に入ってすぐに、そのジムはあった。練習用のリングの周りにプラスチックのイスが4列も5列も並べられている。100人は座れるだろうか。イメージとは違うが、ここがホアヒンボクシングスタジアムのようだ。リングサイド400、ノーマル250とのことで、後ろのほうの250バーツ席で観戦することにした。

ラジャダムヌン、ルンピニーなどの有名なスタジアムでのムエタイ観戦はその頃はまだしたことがなく、この時が初めてのムエタイ観戦だった。6試合ほどがプログラムにあったが、第2試合の日本人ファイターの戦いぶりしか覚えていない。

観客に日本人は皆無で、観光客の欧米人や地元タイ人が椅子に座り、ほぼ満員。フェザー級くらいで出場した短髪の日本人は、20代半ばくらいに見えた。ゴングが鳴るとノンストップで相手のタイ人選手に攻撃し、一気にコーナーまで詰める。タイ人選手はうまくそれをいなして、首相撲、投げの展開にもっていく。離れては前蹴りがうるさいが打たれても正面突破を試みる日本人。

会場の欧米人たちは熱戦にビールを片手に盛り上がっている。この日本人選手については、たまたま見ただけで今や名前も分からない。地方の”草ムエタイ”とも言えるイベントで誰にも見られることなく、必死で手を出し続けてる。その必死さに、私も頑張らないといけないなあ、と、何を頑張るか具体的には分からないが、そう思ったことだけは覚えている。

この日本人選手の試合結果は、3ラウンドを戦ってドローだった。何試合か観て、満足してゲストハウスに戻ると受付の前では、パーティをやっていた。マダムの孫らしい7-8歳くらいの男の子の誕生パーティらしく、風船でデコレーションされている。

「夕飯食べたか?食べていけ、食べていけ」とビュッフェ方式に並べられたおかずを、タイ米を盛った皿に二品ほどよそってくれる。食事は軽く麺料理を食べてきていたが、ありがたく頂くこととした。

パーティには先ほどの欧米人の大柄な男性と色黒のタイ人女性も参加している。マダムの孫も嬉しそうにマダムに抱かれている。家族構成などもよく分からないが孫の歳については、旅仲間に教えてもらったタイ語で聞いてみたのを覚えている。

そしてそのパーティに、花を売りの少女がやってきた。半分屋外になっているようなレストランやバーでは、よく小さな子供が花や飴などを売りに来る。花などを売って家計を助けているのだろうか。まだ少女は売りなれていないようで声も小さい。ちょうどマダムの孫と同じ年齢くらいで、孫を見るととても恥ずかしそうに見えた。

マダムの少女に言っていることは分からないが、どうやら花はいらないと告げているようだ。そしてマダムは紙の弁当箱にタイ米とおかずを盛り、それを三つほど用意した。家族の人数を聞いていたのだろうか。少女は弁当を入れたビニール袋を持って、手を合わせてマダムにお礼を言っていた。

ムエタイ初観戦後のことを当時のメモを見て思い出していたが、パーティを開いてもらった孫と、花売りの少女の対比からか、この誕生会のことは鮮明に覚えている。

***

そして、次の日ビーチで日光浴したり、泳いだりしてゲストハウスに戻ると、受付のフロアーでマダムの孫がテレビでボクシング中継を観ていた。それも日本からの中継の様子だ。テレビは地べたに置かれて、胡坐をかいて観るスタイル。半分屋外だが、扇風機や天井のファンが動いていて、それほど暑くない。やはり大柄な欧米人はビールを飲んでベンチに座っている。

テレビは当時、日本で活動していた台湾人ボクサー、ロッキー・リンがタイのワンディー・チョチャレオン(シンワンチャー)とWBC世界ストロー級暫定王座決定戦をするという、その試合だった。確か、この試合を含めて世界タイトルマッチが、3試合組まれ、メインでは辰吉丈一郎が無敗の1位挑戦者、ポーリー・アヤラと対戦する。当時、ボクシング専門誌で主要な試合スケジュールはチェックしていたが、この日が試合だったことは全く忘れていた。テレビ越しの横浜アリーナのリングに、「辰吉の試合がタイで見られるなんて!」と嬉しくなった。

ロッキー・リンと対戦するワンディーは、当時18歳だったか、非常に若いボクサーだったことは覚えている。一方のロッキーリンは、それまで1敗しかしていないものの、その1敗はリカルド・ロペスに2回で粉砕されたもの。

リカルド・ロペスは生涯無敗で引退するスーパーボクサーで相手が悪かったが、ロペスに何もできなかったリンのイメージは強い。ボクサーの1敗は非常に大きく、ロッキー・リンは二度目の世界戦実現までに長い月日を費やした。

ワンディーの若者らしい元気な攻撃が目立つ。すでに30歳のロッキーリンは厳しい戦いを強いられている様子だった。そのうち、マダムも一緒に立ったまま観戦し、受付の女性も「ヤレヤレー」とでも言っているのか、テレビに夢中になっている。結局試合は12回判定までずれ込み、ワンディーが勝利した。マダムや受付女性、欧米人の愛人(この頃には多分そうだろうと気付いた)のタイ人女性が喜んでハイタッチしている。

そして次の試合は辰吉丈一郎か、いや、もう一試合坂本博之の試合もある。特に辰吉は強い挑戦者とやるから、見逃せないなとテレビを観ると、花道を引き返す失意のロッキー・リンが映し出されたのを最後に、そのまま中継は終わってしまった。タイ人が出る試合だけ、テレビ中継したのだろう。日本の映像をそのまま使っている為、辰吉の控室での表情も映し出され、さあどうなるとワクワクしていたが、もうどうしようもない。

インターネットもない当時、この日か、次の日に日本に国際電話を掛けて辰吉の勝敗を確かめた記憶がある(誰に聞いたかは覚えていない)。次の日の朝、マダムにタイの新聞も見せてもらった。ワンディーの写真は表紙にカラーで掲載されていたが、辰吉の写真はない。ワンディーが戦う写真の、そのすぐ下になぜか交通事故の様子を写したショッキングな写真があった。血だらけで亡くなった人がそのまま載せられていて非常に驚いた。

つたない英語で「なんでこういうの載せるんですか?よくないですよ」とマダムに聞くと、「事故があったから、写真を載せてるだけです」と言われた。何回か聞き返して、どうやらタイでは死体の写真が新聞に載るのは当たり前で、私の質問の意味が通じていない。と分かった。

***

時代は代わり、現在は新聞で報じられる交通事故の写真にはモザイクが掛かり、紙面に死体の写真などは載らなくなっている。観られなかった辰吉丈一郎対ポーリー・アヤラ戦から、15年ほど経って、ホアヒンに行ってみると、当時泊まっていたゲストハウスは跡形もなくなっていた。


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