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ジョーがいた日・2008年10月26日のカオサン通りとラジャダムナンスタジアム

ボクシングに興味を持ち始めたのは、辰吉丈一郎がきっかけだった。1991年2月のアブラハム・トーレス戦から、テレビで中継される試合を見始めた。何度も何度も画面の中で戦いを見ていた、その辰吉丈一郎本人が、熱気を帯びた会場の真ん中のリングに登場した。

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そこは、バンコクのラジャダムヌンスタジアムで、2008年10月26日のまっ昼間だった。試合は、通常のムエタイ興行の中に組み込まれた。メインイベントではない、第二試合の辰吉丈一郎パランチャイ・チュワタナ戦、通常のムエタイ興行と同じく、外国人用のチケット代は、1000バーツと2000バーツ。ムエタイの試合を目当てに来場したタイ人客は200バーツで観戦が可能だった。日本人がタイ人のふりをして入場しようとしても、特にこの日はチェックが厳しく、窓口から身分証明書(市民登録カード、またはパスポート)を出せと言われる。10倍の価格差とした料金設定に、全く納得はいかないが、会場まで来て引き返せない。

この試合の2週間前にポスターを見たのだった。

”辰吉丈一郎復帰戦” "Joe will back "

世界中からの旅行者が集う一角である、カオサン通りの日本人向け旅行会社の軒先にそれは貼られていた。

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実際にカオサンに貼られていたポスター

いつの日にでもカオサン通りに向かうと、非日常を味うことができた。1996年に初めてバンコクに立ち寄り、カオサン通りで宿を探した時の印象が強かった。湿気を帯びた熱風と、自由な雰囲気が旅人を引き寄せている。自身のことを述べると、2008年のその頃は、バンコクに拠点を移して1年目だった。チェンマイでのチャレンジは渡タイ早々に失敗し、バンコクで仕切り直しを決めた。その頃、とりあえずの仕事を探していたが、求職がうまくいかなかったり、息詰まりを感じると、このカオサン通りに赴き、気持ちをリセットしていた。

辰吉や日本のボクシングのニュースを、カオサンのネットカフェでチェックしてみた。屋台で買った甘ったるいタイのミルクティーを飲みながら、パソコンを眺める。名城信男、内藤大助、新井田豊、そして辰吉に2回勝ったウィラポンと対戦した長谷川穂積、西岡利晃、と堂々たるチャンピオンのニュースが大きく扱われている。
辰吉丈一郎は、過去の存在となりつつあった。日本で試合を行うことが出来ないため、あらゆるルートを探り、またJBCの引退制限(37歳)を待ち、ようやく組んだ試合だろうことが分かった。若い頃は「一度でも負けたら引退する」と公言していた彼が、37歳を過ぎても、リングに執着している。タイのリングで、どのような姿を見せるのか、強く興味が沸いた。

その肝心の試合は、あっという間に終わった。2ラウンドでのノックアウト勝ち。対戦相手は実力不明のまま、倒れた。

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ラジャダムヌンの辰吉、アッパーも用いてタイ人選手を攻める

勝つには勝ったが、そこから遡ること5年前に、テレビで見たセーン・ソー・プルンチット戦と比べても辰吉の動きはぎこちなく見えた。正直、もう少しリングの上の辰吉の実物を見ていたかった。

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2000年頃に、大阪府立体育館でのプロボクシング興行の際、客席にジャージ姿で現れた実物を初めて見たが、圧倒的なオーラを放っているように見えた。辰吉が歩くとモーゼの十戒ではないが、観客が真っ二つに分かれて道ができる。リング上で試合していた選手たちよりも存在感を示していた。

ラジャダムナンスタジアムでは、リング上でも、期待していたその存在感は感じなかったが、ともあれ、再起戦を勝利した。日本から駆け付けた、特攻服を来た応援団は勝利を祝い、ラジャダムナンの入口で万歳を繰り返していた。ムエタイ観戦が目当てのタイ人客は、第三試合、第四試合とプログラムが進むごとに、増えてくる。

何事もなかったように、いつも通りのムエタイ興行が進行していく。彼らは、特攻服で騒ぐ日本人を見ても、そこで何があったのか、誰の試合があったのかもよく分かっていないだろう。

ラジャダムナンスタジアムから歩いて10分、試合後のまだ昼間のカオサン通りは、いつもと変わらず、西洋人を中心とする外国人旅行者で賑わっていた。通りに並ぶレストラン兼バー、その中の一軒のお店で休憩する。

軒先のテーブルに座って、辰吉丈一郎の再起戦勝利を祝って、ビールを飲んだ。厳しい道のりになるだろう、今後の彼の再起ロードと、リングへの執着心を思った。バンコクで浮遊している自分自身のことも気にしながら、バックパックを背負う旅行者、昼間から酔っ払って騒ぐ欧米人が闊歩する通りの様子を眺めていた。

某サイト掲載(2022年)


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