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「自由にさせてよ」の自由って何だ?

30分だけしかYouTubeを見られない不満に駄々をこねる娘が「もっと自由にさせてよ!」と主張した。そもそも自由とは何であり、先人の知恵は何を教えてくれるのかについて、ホッブズ・カント・スピノザの考えを紐解きつつ考えを深める。

みんなが好き勝手にすると争いがおきる

おそらく娘が意図する「自由」に近いのは、17世紀に社会契約論を説いたホッブズ先生による自由「外的に拘束されない」だろう。お菓子を食べたければ食べればいいし、YouTube観たければ見たらいい。すべてのことは許されているッ!

だがしかし、次女にも「YouTubeじゃなくてアニメが見たい」という自由があるし、私にも「静かに本が読みたいのでテレビを消す」という自由がある。みんなが好き勝手に振る舞うと、自由と自由が衝突して喧嘩で傷付け合うことになる。そんな闘争状態から身を守るためにも、いったん自由は手放して、与えられたルールに従って平和に生きようというのがホッブズ先生の考えだった。

ウチはそんなに野蛮な家庭でないし、絶対王政ではなく自分の手でルールが決められる。...そんなおうちはホッブス→ロック→ルソーへと社会契約論の進化を追ってみるのも有用だろう。

社会契約論に対する想定問答として、「じゃぁ誰にも迷惑かけなかったらYouTube見続けていいのか?」という反論を認めることになる。親としては、子供に幸せな未来を掴んでもらうために、今YouTube漬けになるのは相応しくないから避けてほしい気持ちがある。

欲望に支配されない自由

18世紀、自然科学と哲学との調和をはかったカント先生によると、自由は「主体的な判断に従って道徳的に生きること」である。反対に、YouTuberが訴求する「また見てね」に支配されてYouTubeをダラダラ見続ける状態は、欲望に囚われていて自由ではないのだ。

カント先生以前の時代背景として、17世紀までに発達してきた自然科学は万物を解き明かすと期待されてきた。この頃の関心事として、「自然科学がモノの動きを規定するように、人間の運命も因果律に支配されていているならば、レールの上を走るだけの人生は無意味じゃない?」があった。カント先生は自然科学で推論できる範囲に境界線を明らかにし、「生きる意味あるよ」と説いた。ただし、欲望のまま生きてはモノと同じなので、欲望を克服してこそ人間だと言う。

「自由にさせてよ」と言う娘に対して、「むしろYouTubeを我慢することが自由なんだ!」と反論することになる。自分が子供の立場だったら、「将来YouTuberとして世に貢献することを主体的に決めたので、自由意志によりYouTubeを貪欲にインプットする!」とか調子の良いことを言うだろう。最終的には「自分の人生は自分で決めたらええ」と言いたいけれど、まだ判断するのに十分な力が備わっていないのではと心配になる。

本性に従ったアウトプット最大化

17世紀オランダの哲学者スピノザ先生が著書「エチカ」の中で最終目標として位置付ける自由について紹介する。

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。

魚を水から出してやっても自由にはなれない。水の中で活きることは逃れられない制約であり、本性なのだ。赤ん坊はまだ人間の本性を理解しておらず、大人になる過程で本性を学び自由への切符を手に入れる。

自由/不自由の線引きとして、スピノザ先生は能動/受動を持ち込む。外から強制されるならば自由とは言えず、自分の本性だけに由来したアウトプットの最大化が自由なのだ

スピノザ先生は自由意志でさえ否定する。なぜなら、本人が「自分で決めた」と思い込んでいるだけで、実は無意識に外からの影響を受けているかもしれないからだ。子供の意思決定に対する危うさにも重なって見える。

さておき、就職活動において自己分析から着手するよう、自由になるためにはまず自分の本性を解き明かさなければならない。「自由にさせてよ」という娘に対して、「自分の本性を解き明かすのが自由への近道だから、YouTube見てる場合じゃない!」ということになる。

まとめ:自由がもたらした成長

パパに「自由にさせてよ」と言うとメンドクサイことを学んだ娘は、かわりに「好き勝手にさせてよ」と言い換えるようになった。「自由」という便利な言葉で思考停止せず、何を意味するのかを考えて言い換えられたのは成長である。

依然としてYouTube問題は何も解決していないし、我が家は闘争状態に陥れられたままである。とても自由な娘だ。でも、100分 de 名著シリーズを読み返して要約したことで、私自身も学びにはなった。

哲学界には著名な先生がいろんな自由について述べている。他にも、我が子に伝えるべき「自由」があれば教えて欲しい。


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