仁義ある姉妹
「素直になったら負け」とでも言わんばかりに、意地悪な時は本当に意地悪な長女と、何も悪くないのに場を丸く収めようと「ごめんなさい」を連発する二女を育てている。
長女の意地悪にも波があって、仲良くできる時は凄い仲良しなので、思いやる心はありそう(希望的観測)。でも、普段から思いやりの気持ちを表現するのが絶望的に下手で、親から見ても「損してるなぁ」と思うことが多い。そして、いったんスイッチが入ると性悪女になって自制が効かない。
一方の二女は、癇癪を起こしている時を除けば、息を吸って吐くように「ありがとう」「ごめんなさい」が言える。素直に見える意味では「得してるなぁ」と思う。でも、姉妹でお人形遊びをしていても、ほとんどの台詞は長女が「○○○○って言って」と指定したセリフを、そのまま二女が発する儀式となっている。「ありがとう」「ごめんなさい」についても、親に言わされて発しているとしたら、そこに自分の気持ちがあるのか心配になる。
ふと思い出すのは、孔子の論語に出てくる「仁」と「礼」である。「仁」は人を思いやる気持ち、「礼」はそれを表すための行為である。
人にして仁あらずんば、礼をいかにせん。
「仁」があっても「礼」が無いと伝わらないし、「仁」なしに「礼」だけあっても意味がない。大人になる過程で両方がバランスよく育つと、一体のものとなって意識しなくなる。でも、成長する過程ではアンバランスな状態を経るため、孔子のおっしゃる「仁」と「礼」が別々にあることを意識した。
もしかすると「仁」を持った子は、本当は素直に行動へうつしたくて、自分の中のハードルを越えようと頑張っているのかもしれない。「礼」を体得した子は、何度も行動を繰り返すうちに、本当の意味に気付くのかもしれない。
「仁あって凄い!」「礼できて素敵!」...無いものを嘆くのではなく、在ることを称えてゆこう。
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