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借りパクが一気に返ってきても逆に困る話

本を読んでも内容を忘れてしまう問題と、本の置き場所が無い問題の解決策として借りパクさせている話をする。

読書した内容をFacebookに書き殴っている

私、通勤時間が長いのでそこそこ本を読む。本の要約やら、感想やら、それを選んだ動機について書き殴って、頭の中にあることを放流するつもりでFacebookに投稿している。

「そういう文章こそblogとかにちゃんと残せばいいのに」と言われたりもするけれど、ストックするには値しない内容だと自分でも解っている。読み手を配慮しない書きっぷりの長文なので、大してイイネも付かない。だが気にしない。

ただ文章として書くだけでも、そこそこ記憶を助けてくれる手応えがある。読んだこと自体を思い出しさえできれば、タイトルを思い出し、過去の自分の投稿を辿り、読んだ時の気持ちに戻ることができる。

本を読んでも忘れてしまうのだから、読む意味はあるのか?論争はある。情報接種として捉えれば、自分で書き殴ったくらいの情報量しか未来の自分に残せないのかもしれない。そんな気持ちでFacebook投稿しているのもある。

実際には、読んだ瞬間から「もっとよく生きよう」と心が動いたことの連続で、人生にジワジワ影響しているとは信じたい。

貸せるのは紙媒体の魅力

私があえて紙媒体の本を手に入れる理由として、他の人に貸すことができるからというのもある。興味関心があることで他の人と関係が築けるのって、なんか素敵やん。

Facebook投稿にコメントくれる人は少ないけれど、実際にお会いすると「あの本、気になってました!」と声をかけてくださることがある。そして、「よかったら貸しますよ」と言う。どんどん貸す。

上を見るときりはないけれど、自分程度でも本をスラスラ読めるのは一種の才能に思える。本を貸した相手はたいてい、途中で挫折することが多いようだ。読んでいないのに返すのも微妙なので、借りパクされる率が高い。

実は、意図的に借りパクさせているのもある。もし、借りパクが一気に返却されてしまうと、私の本棚におさまりきらないので逆に困る。貸しトランクよろしく、私の本を他の家で保管してもらっているノリに近い。本当に読みたくなったら返してもらう。

そこまでして紙媒体にこだわる必要ある?

一般論として「紙の本を選ぶ理由」に挙げられるのは、重みがあって読む体験が違うとか、物理的に本棚に並べられるとか、製本や組版の美しさを味わうとか、そんなところだろうか。

「記憶のデザイン」という書籍の中では、何でも検索できるようになったところで、何を検索すべきかを忘れて探しだせないよね議論があった。これに対して、検索に頼るのではなく自分で位置付けて整理することが有効という話だった(私が過去にFacebookに書き残した情報を辿った)。

筆者が提案する知識OSの在り方として、仮想空間上に見慣れたおうちを構築して、仮想の書斎を作るかのように電子データを配置してゆく方法を提案する。そうすると「あの辺に置いたアレ」という記憶から辿れるとか。

↑という提案にインスパイアを受けつつ、物理的な本棚の容量を削減しながら、自分で位置付ける方法として、私は人間関係を利用している。「○○つながりの△△さんが興味を持った本」というラベルを付けて、借りパクさせている。

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