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マウンティングせず謙遜せず

今年も半分が去った今更ではあるけれど #今年の抱負 せっかくなので言葉にしてみよう....と心の中で思ったなら、その時スデに行動は終わっているもので、タイトルで言いたいことは言い切っていた。

マウンティングの線引きが難しい問題

補足すると「マウンティング」は、相手よりも自分が優位だと示す行為を指している。そのルーツは猿山のボス猿にまで辿れて、猿の場合はマウンティングによって力関係を可視化して余計な負傷を避ける合理化に繋がっている。人の方が快感のためマウンティングする。違いはあれ本能に組み込まれたレベルの話なので、抱負に値するくらいは難易度が高いと捉えている。

抱負と公言して「うっかりマウンティングしてたら指摘してね」と言った時に、何がマウンティングなのかの線引きはけっこう難しい。面と向かって「どうだ凄いだろ!」と言うてるケースは明らかアウトなので分かりやすい一方で...

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SNS投稿に対して「ステーキを食べるなんてマウンティングだ!」と言いがかりを付けられる余地もある。逆パワハラみたく、ほとんどの行為に対して恣意的に当てはめれば逆マウンティングが成立する。

抱負として定めた理由に立ち戻る

なぜ抱負にしようと思ったか遡ると、マウンティングとらない人の方が「粋」で、そういう人に憧れるからである。

もう少し噛み砕くと、そこらへんのネット記事などで挙げられる「マウンティングする人の心理」の裏返しに、私のなりたい姿がある。

・幸せな人はマウンティングしない → 幸せでありたい
・自分に自信がない → 自信を持った人になりたい
・承認欲求が強い → 誰が何と言おうが自分が好きだから動じない
・自分が一番でないと嫌 → 他の人の成功を喜べる人でありたい

客観的には線引きではないけれど、この辺りに立ち戻って自分の行動が理想に近付こうとするものかを問えば基準となるだろうか。

マウンティングは多様性により無効化されるかも

書いているそばから「そもそも」が浮かんでは発散する。世の中に多様性を重んじる価値観が真に浸透すれば「相手よりも自分が優位だと示す」ことが成り立たなくなるんじゃないか。

何を持って「優位」とするかのモノサシが多様化して、別次元の尺度を比べることが無意味になってくる。皆が同じ価値観を持っていた時代であれば、小学生は足が速い方がモテ、中学生はちょっとワルいほうがモテ、大学生はコミュ力ある人がモテたかもしれない。社会人だと収入だろうか。

でも、移住して自足時給で生活しながらスモールビジネスを興す人が輝いて見えたりもする。そういう人生を選んだ人は、みんなと同じ価値観の呪縛から一抜けしていて、その精神性においても憧れる。

モノサシを探しだしてくれたことに感謝

「危険物の乙1~6まで制覇したんだ!」と「ガンジス河でバタフライ泳いだことあるんだ!」のどちらが凄いかは比べようがない。別にどちらも凄くないと評価する人もいて当然だろう。あ、どちらも私です。

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多様化する価値観の中で「凄いじゃん!」というモノサシを見出してくれたとしたら尊いことで、それを否定するのも失礼な話だなぁと思う。だから「凄い!」と言ってくれたことには素直に「ありがとう!」で応じたい。これが、タイトル後半に「謙遜せず」を挙げた意図である。

マウンティングされるのも嫌いじゃない

男子やオタク方面のマウンティングって、凄くニッチな内容に「俺はこんなに詳しいんだ!」と掘り下げる。普通の感覚だとマウンティングとして成立しないような事でも、疑わずにのめり込む盲信は嫌いじゃない。好きなことについて話す時に人は一番輝く。一通り聞き出すと自分の引き出しも増えるので、マウンティングし倒してくれて構わない。

マーケティングリサーチやユーザーリサーチのインタビューのテクニックとして「師匠と弟子モデル」がある。気持ちよく話してもらうために弟子入りしたかのように教えを乞うというもの。アレの実践だと思って真剣に聞き込むので、マニアックなマウンティング待ってるぜ。

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