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また黒歴史はじめました(前編)

ネットに文章を書き残すこと自体、わざわざ黒歴史を刻むような話ではあるし、冷静に考えると「アラフォーおじさんの文章を誰が読みたいねん!」という話もある。一方で、誰も求めないのに書くことこそ、よりストイックな自己表現であり、むしろ尊い気がしてくる。後先考えず衝動をぶつけて黒歴史を垂れ流すことは、クリエイティブであることと表裏一体と言えよう。

そうやって理由を付けて書き始めることにデジャヴ感があり、それも1度や2度ではない。幾度となく黒歴史を書き連ねてきたし、今もネットのどこかに断片が漂っているかもしれない。インターネットの歴史と重ねつつ、自分の黒歴史を振り返ることからはじめる。

自己紹介しようとすると

神戸で生まれ、神戸で育ち、神戸で生きている。一言で自己紹介する機会があれば「メーカーのデザイン部隊にいる技術者です!」と言う。「何をデザインしてるんですか?」と聞かれると、「UXデザイン、つまりユーザー体験のデザインです!」と答えることになり、よくわからない反応をされる。

言うてる私自身も自分が何者か分かっていない。今更自己分析という訳でもないけれど、どんな人か明らめようと文章を書く。

小2:ゲームしたければ自分で作れ

スーパーファミコンが出た1990年当時、私は小学校低学年だった。当時は「みんな」スーパーファミコンを持っていたのに、私の家は買ってもらえなかった。小学生の言う「みんな」なんてクラスの2~3人だったりするけれど、スーパーファミコンに関しては本当に「みんな」が持っていた。

我が家では「ゲームしたければ自分で作れ」という教えでMSXが与えられた。頑張って写経みたくタイピングしてインベーダーゲームくらい出来た日もあったけれど、電源を消すとプログラムも消えてしまう代物。それでも、手に入らなければ作れる手応えが得られた。

小3:初めての動画制作

初めてパソコンを買い与えられたのは。確かMacintosh Quadra 950だった覚えがある。1993年発売なのでたぶん小学校中学年。「マック」じゃなくて「マッキントッシュ」だからな。

お絵かきソフト「キッドピクス」で紙芝居に音声を付けた「うんちものがたり」を自主制作していた。父が入っていたパソコン通信の仲間らしき人に会うと「続編楽しみにしてるで!」と激励された。今思うとこれが動画制作デビュー。

この頃、父がバリカンでイカシタ髪型にしてくれた。担任から呼び出されて説明を求められた父が「左右対称に刈るのが難しかったんですが上手く仕上げられました」と答弁していた。

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小5:パソコン通信からインターネットへ

小学校高学年の頃になると、パソコン通信同士を繋いだ「インターネット」が拝めるということで、父の友人の家にお邪魔してホワイトハウスのウェブサイトを閲覧した。今日では「だから何だ?」という話だけど、すごいワクワクして新しい時代の到来を感じた。阪神淡路大震災に被災したのもこの頃だった。機会あればそのうち書くかもしれない。

小6:ワードアート満載の学級新聞

Windows 95の頃にはWindowsに乗り換えていた。ワードアートをふんだんにあしらった学級新聞を作っていた記憶がある。今見るとあの立体は凄いダサいけれど、当時は「せっかくだから立体にしとけ」みたいなところあった。黒歴史は繰り返すもので、今は「せっかくの8Kを活かした表現を」と言うているのは、後々ダサく見えるだろう。

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一緒に学級新聞を作ってた小学校の友達は、最近ミラノサローネサテリテでグランプリ獲った。今でも地元の飲み友。

生徒会長だった中学時代

親が自営業で収入の波があったことを考慮しても、教育に費やすお金の遣い方にはムラがあった。数十万するパソコンを買い与えられ、クラスで最初にインターネットも開通していたのに、なぜか塾には行かせてもらえなかった。でも、科目関係なく勉強するのは好きで副教科も含めて大体「5」とってたし、調子良い時は学年2位とった。それなりに努力はしたけれど、部活で勝つために頑張ることやゲームで勝負することと同じで、熱中するものの1つとして取り組めた。

ずっとスイミングを習っていたので水泳部に入りたかったのに、プールが無い中学校だったので、週2~3しか活動の無い美術部に所属しつつ泳ぎに行ってた。美大入試のデッサンは出来ないけれど、描くことは好き。あとは、生徒会長になって、いろんな会で台の上に立って話した。ずっと地元にいるので、在学期間が被っている方にお会いすると、当時の事を覚えて下さっていてビビる。

背伸びして後から頑張るスタイル

父親やその友達が「工業高専を目指していたけれど行けなかった」と話していたのが引っかかり、私自身も高専を目指した。母からは「中学校では通用しても、凄い人が集まってくるんだから通用しないよ」と心配されたのが、なんだか少年漫画っぽく感じられ「望むところよ!」と思った。

中学の先生が盛り気味に推してくれたため、推薦入試に合格できた。1999年に入学して最初の定期試験でクラスの半分以上には入っていたけれど「もっと出来ると思ってたのに...」と言われ、いっそう頑張らねばと思った。とりあえず背伸びしてハッタリで入り込み、後から頑張るスタイルを確立した。

部活は念願の水泳部に入った。掛け持ちで軽音部と体操部に顔を出すこともあった。バンドやるにあたり、リハーサルスタジオを借りるお小遣いもないので、とりあえず部室を使えるようにする必要があった。

インターネットと共に大人になった高専時代

高専のクラスは癖が強い奴が多かった。東大に行くような奴から、金髪ピアスで就職してゆく奴まで同じ空間で5年間過ごす。みんなこぞって、HTMLのタグを覚えて、プロバイダーの置き場所に自分のテキストサイトを構えて日記書いたり、BBS置いたり、テキストサイト巡回したりした。

「電気情報工学科」だったのでCGクリエイターになれると勘違いして来る人もいるけれど、現実は物理・数学・実験を地道にやる。中学まで勉強せずに成績が良かった人も、それなりに努力しないと赤点をとって、卒業する頃にはオリジナルメンバーは2/3くらいしか残らない。

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学業とは関係ないところで、試験前に現実逃避したくなる時に、MdNの雑誌を見ながらドローソフトやペイントソフトを習得した。結果、デザインの基本は知らないのに、ツールの使い方は知っている謎スキル人材が生まれる。

携帯電話も「みんな」が持っていたけれど、私は二十歳まで持っていなかった。私は友達の番号を暗記して公衆電話からかけられたし、うちの親は私の友達の携帯にかけて私に伝言したし、私の友達も父を慕っていた。当時の友達とは今でも一緒にバンドを続けていて、字面にすると「バンド歴20年」とかでビビる。普通のバンド歴20年はもっと上手い。

後半に続く

書き始めると思ったより長くなったので、後半に続く

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