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#0088 自己紹介の難しさ:ジブンは何者であるか定義できているか

皆さんは、仕事やプライベートでどのような自己紹介をされますか?

私は決まったテンプレートは特にないのですが、サラリーマンとして動いているときは、自分のことより先に会社の自己紹介をして、そのうえで自分はどのような仕事をしているかを話します。相手に応じてですが、プライベートの話題は後半の方に散りばめる感じでしょうか。

先日、NewsPicksの番組で、宮崎県新富町を拠点に起業家として地域創生や農業ベンチャーなどで活躍されている齋藤潤一さんが、「自分が何者であるか」を言い切ってしまおう!と仰っていました。

これを見て、ハッとしました。
自分は自己紹介するときに、所属・肩書から「ジブンが何者であるか」を説明しているなと。会社の看板や肩書を外した素っ裸の人間になったとき、どのように「ジブンが何者であるか」説明するだろうか。齋藤さんのように、明確にジブンは何者だと言い切ることができるだろうか。
そんなことを思いました。

ほかにも最近聞いたVoicyの放送でも、ジブンって何かを考えさせられるようなことがあったので、そちらをご紹介しながら、ヤバイ!ジブンが何者であるか言えないかも!と思ったことを書きたいと思います。(3137文字)

○ハッとさせられた

冒頭、述べた通り、NewsPicksの動画で齋藤さんが仰った「仮でも良いから自分が何者であるかを名乗る」という言葉が強く印象に残っていて、これは、自分自身の本質を理解し、分かりやすく表現することの第一歩ではないかと思います。

会社にいると、上の世代ほど、どの会社に所属していて、そこでどんな仕事をしていて、どんな肩書で、どこの大学出身かで人を判別する人が多いです。銀行ほどではありませんが・・・

とくに上の世代の人ほどこの傾向が強いのですが、一緒にいて、ある違和感を覚えます。あなたはそれでしかジブンを語れないの?会社の肩書や帰属なんて、結局フィクションに過ぎないのにどうしてそこまで拘るのか?いろいろな意味で貧しくないか?と。

そのようにして上司のことを見ていたジブンですが、斎藤さんの言葉を通して、それがジブンに向けられたようにハッとさせられました。ジブンだって普段お取引先に初めて自己紹介するときは、会社に帰属した者として話しているではないか。イチ個人として勝負していないではないかと。

ジブンを棚に上げて上司のことを蔑んでいたことを非常に恥ずかしく思います。

○noteを使い倒そう

昨年の10月から木下斉さんにVoicyの放送で背中を押してもらってスタートしたnoteの執筆ですが、意外と続いています。

PCやスマホに向かいながら、ジブンを客観的に見つめることができるので、自己分析にもなりますし、思考の整理にもなります。ジブンの考えを話すとき、「え~」とか「あ~」とかが少なくなってきた気もします。

なので、ジブンの生い立ちを振り返りながら、noteを活用して、ジブンは何者かを言えるようにすれば良いのではと考えています。そういえば以前、同じようなことを言っていました。これまで主観的になりすぎていたり、逆に人の目を気にしていたり、泳ぎながら生きてきた感があります。その中でも、人との出会いによって魅力的な仕事に出会えたり、会社の中で新事業として立ち上げてみたりと、人生を動かしてきた感があります。その辺を分かりやすくバシッと「私はこういう者です」と言えるものを見つけたいと思います。

○ジブンに向き合おう

東京でITの会社を経営されながら故郷釧路で活動をされている四宮琴絵さんの今朝のVoicyを聞いて、少しだけジブンの生い立ちを振り返ったりしました。これもある意味で他責に繋がるのだと思いますが、高校生までは親や先生の言うことを聞いて生きてきて、急にそこから逃れたいと思って釧路を出て…と、ジブンの内面から「地理が好きだからこの学校に行きたい」とか「これがやりたいから釧路を出る」というのではなく、外圧からジブンを定義して動かしてきた10代・20代であったなと思いました。

30代になってから、とくに30後半に入ってから加速したと思うのですが、そうした気付きと後悔を回収するように、ジブンの内面に向き合おう。ジブンに嘘をつかないように生きていこうとしているように思います。そのように軌道修正してきたから、官民連携事業という地域で行う仕事に出会い、そこから波及して木下斉さんの著書やnote、Voicyに出会い、釧路に関わりたいなと思うようになり・・・と今に至っている気がします。この方向性は間違っていない気がするので、あとは他責にしない、しっかりとジブンに向き合うということを意識する必要があるのかなと思います。

○内面から湧き出る感性を大事にしよう

荒木マスターと尾石晴さんの2回に亘る対談でも、ハッとさせられることがありました。尾石さんが「感性的読書会」という「感性」を大事にする読書会について荒木マスターと対談している内容なのですが、本を読んで感想をアウトプットするときに、ネットで他人の感想を見ると、それに影響されてしまうので、できるだけジブンを出して感想を発表できるように意識すると仰っていました(対談1)。

私はよくVoicyを聴いたらコメントをするように心がけているのですが、人の感想を見てから書くのと、人の感想を見ずにVoicyを聴きながら書くのとでは、全然違うコメントになっています。人のを見てから書こうとすると、なんとなく、自分の感想が上書きされてしまうような感覚です。

本を読んだとき、映画を観たとき、純粋に内面から湧き上がる気持ちや感想は、すぐに外部の影響を受けてしまう儚いものな気がします。SNSでつぶやいたり、メモしてみたり、何かしら残しておけるようにしてnoteで振り返ってみるというのもやりたいなと思います。後からそれを見ると恥ずかしい気持ちになるかもしれませんが、自己分析を行う良い材料にもなるのではと思いました。

○社会の衣を脱ごう

2日目の対談では、自己紹介について語っていました。
齋藤さんの言葉が胸に残っていたので、この放送もインパクトがありました。ジブンだったらどのような自己紹介をするだろうか、きっと悩むだろうなと思います。

具体的には、所属や肩書といった「社会の衣」を脱いで自己紹介をしてみようというもので、「大きい点と小さい点を紙に書いて解説する」とか「紙に好きなものの写真を貼って自己紹介をする」とか形式は問わずに、社会の衣を脱いだ状態でジブンとは何かを自己紹介することに重きを置きます。

社会人になると「感性に蓋をする」と尾石さんは仰っていましたが、会社など組織で働くうえでは好き嫌いでは行動できず、感性に蓋をして個を犠牲にしていることが多く、そこで生きていく上での生存戦略でもあったりします。

ですが、ジブンがジブンであることの所以たるや何かを考えると、他者から自己定義するのではなく、内側から自己定義する方向に向かっていかなくてはならないので、この尾石さんが提案する「社会の衣を脱いだ自己紹介」は、非常に大事なプロセスだと思います。

子供の頃は感性の塊だったのに大人になって周りに合わせることが優先されて感性を抑圧してしまう感覚、すごくあるので、抑圧していた感性を呼び覚ましてみたいと思います。

○まとめ

つらつらと長くなってしまいましたが、最終的に、これらのプロセスを通じて自分自身が何者であるかを内面から定義し、自己紹介をすることは、自己同一性を確立し、自信を持って自分自身を表現することになるのかなと思います。自己探求と感性を大切にすることで、自分の本当の姿を他者に伝えることができるようになると思います。

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