夏の足音 第一話

夏の足音
第一話
 東京の下町にある、その銭湯は、夕暮れ時になると急に込み合う。夕飯前のひと風呂浴びようと、会社帰りのサラリーマンや子供を連れた家族、あるいは僕のような大学生でたちまち浴場はいっぱいになる。
 僕が住む六畳一間の安アパートから銭湯まで、近道をして徒歩で約五分。鉄線がはられた線路沿いを歩き小さな踏み切りをひとつくぐると、昔ながらの狭い商店街に出る。乾物屋や駄菓子屋、さまざまな日用品を取り揃えている雑貨店、店先に古いポスターを貼ってある薬局などが立ち並び、銭湯<弁天湯>はそれらの中にひっそりとあった。
 大学三年生になった僕は、単位取得の目的か少数の気に入った講義の為にしか通学せず、空いた時間は家庭教師や塾の講師のバイトをしていた。恋人はおろか男の友人も少なかったが、べつだん退屈とは思わなかった。アパートの自分の部屋で古本屋でまとめ買いした本を読んだり音楽を聴いて、のんびり過ごすのが性にあっていた。親元を離れ一人暮らしになって銭湯通いをはじめたのだが、これがなかなか気持ちがいい。実家の内風呂よりもずっといい。それも夜になりきる前、たそがれ時に通うのがいちばん好きだった。夕焼けの茜色に染まったいつもの道を、石鹼や下着をくるんだタオルを片手にゆっくり歩いていく。線路を走っていく電車のけたたましい音。踏み切りの遮断機に通せんぼされた子供らの不機嫌な顔。駅の改札口からのどかな様子で出てくる、この町の住人たち。それらのすべてがいとおしく、僕の生活の風景にしっくりとなじんでいた。
 銭湯につくと暖簾をくぐって、まず下足入れに靴をしまう。それから番台にいる人懐こい丸顔をしたおかみさんに小銭を払って脱衣所にはいる。招き猫や熊手や七福神などの置物が田舎の親戚の家みたいに、棚の方々に置かれている。すっ裸になって浴場に入り、すぐに目に飛び込むのはみごとな富士山の絵が描いてある壁画だ。色鮮やかなその絵を眺めながら、ゆったりと広い湯につかると気持ちがほっと和むのだった。
 銭湯には雑多な人間が出入りして、さまざまな会話をかわしているが、なかでも僕の心をとらえたのは女湯から聞こえてくる少女の声だった。
 
「タ—ちゃん湯ぶねには静かに入るのよ」
「よっちゃん背中に石鹸がついてるわ」
 
 鈴をころがしたような少女の声に応え、弟妹らしい賑やかな声があとにつづく。
 
「はーい、おねえちゃん」
「あたし体ぜんぶ洗ったからもう出ていいでしょう」
 
 そして浴場を風のごとく走り抜ける気配がして、開き戸がパタンパタンと開けしめされる。
 やさしい姉と彼女を慕う弟と妹。いったい、どんな娘なのだろう?両親はなぜ一緒じゃないのだろうか?彼らの声にいつも耳をそばだてながら、僕はその姿を実際に見たことがなかった。ただ、兄弟のいない僕には彼らの会話がほほえましく、とてもうらやましく思えてならなかった。
 

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