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サーフブンガクカマクラ巡礼③ 稲村ヶ崎~長谷

七里ヶ浜スカイウォークの静かなギターが鳴り終わると、ドッタンバッタン大騒ぎなドラムと跳ねるビートと派手なギターが流れてきた。ASIAN KUNG-FU GENERATION 「サーフブンガクカマクラ」の6曲目は「稲村ヶ崎ジェーン」である。

稲村ヶ崎駅から宅地の中を進んで、しれっと紛れたコンビニや朽ち果てた会館を見ながら、海沿いの道路まで出てきた。
渡って海岸に降りたいけど、こういうときに限ってぜんぜん信号が変わらない。
サーフショップや別荘を背にして信号を待ちながら、行き交う車をにらむ。

もしかして、海の似合うひとになるには、信号無視という軽犯罪を犯すアウトローさを求められるのかもしれない。
なんのリスクも負わない人間なんて海は迎え入れてくれないのか。
ひょっとしてそういうタイプの肝試しなのか?
それならこっちも考えがあるぜデコ助野郎……などと思っていたら信号は青にかわって、道路の向こうで舌を垂らした白い大きな犬が尻尾を振っていた。

という出鼻をくじかれたアナーキー気分になりつつ稲村ヶ崎公園に足を踏み入れた。
平日な昼間だというのに、ピクニックをしたりドローンを飛ばしたりマリンスポーツをしたり缶ビールをキメたり、好き勝手な大人がまあまあの人数いた。
おーいいですなー楽しい身分ですなーなんて、いろんなことに手が付かなくなって湘南に飛んできた自分を棚にあげて、卑屈になって羨んでしまった。

オーノー 財布はジャリ銭ばっかりだ
時は悠々なんだが でも金ないし
急になんだか空しくなった社会に
有用なナントカ?そんなものはない
ASIAN KUNG-FU GENERATION 「稲村ヶ崎ジェーン」

今日だけ 有るだけ全部燃やしたい
そうだ せめて今だけ 焦げる浜辺 ダンスタイム
ASIAN KUNG-FU GENERATION 「稲村ヶ崎ジェーン」

ワッ 
と思った。
跳びはねて踊りたくなる音楽と、
ニヤニヤしちゃう言葉遊びと、
刺激的で切実な衝動みたいな歌詞を聴いてるうちに、
決まりが悪いけど痛快!みたいな気分になった。

この公園にいる遊ぶ大人たちは本当に気持ち良さそうだった。
やっと得られた有給なのかもしれないし、
育児中のつかのまの休息なのかもしれないし、
遊べるように拓いたライフコースなのかもしれない。
まあマジでサボって遊んでるとしても、
そのヤケクソ感が清々しい。

それなのに生産性とか給料とか社会貢献とか言葉を張り付けて、
罪悪感を背負いながら休む自分は何様なのだ。

前言撤回をして、遊ぶ大人や自分自身を後ろめたく思った自分を叱り飛ばしたい。いや、もう踊るしかねえ。ダンスとかできひんけど手と足をむちゃくちゃに振り回して、いろんなことを遠心力で吹き消したい!
海に飛び込みたい。
海ならデコピンしながらも抱きとめてくれるはず。

そういえば一昨年の追いコンで「つまらない大人になっていたら叱ってください」とスピーチして去っていった軽音部の先輩がいた。可憐で美人なおひとで、楽器のプレイもバチバチで、身の振り方もそつなく、見てて気持ちいいお方だった。先輩はBGMにいい音楽が流れていたら会話を止めても心を砕きたいし、数字で図れるものだけに飲み込まれたくない…という趣旨のお言葉を残していった。

その当時はひどく感銘を受けたが、実はピンとは来ていなかった。でもいま何となくわかった。こういう瞬間に、都心で働く不特定多数を忖度して遊びを自粛する瞬間に、つまんねえ大人への下りエスカレーターは口をパクパクさせているんだ。

スッキリしたような、ちょっと神妙な気分で駅まで戻ってきた。線路はまた北上し始めるからもう海は見えない。また住宅の間を狭そうにくぐり抜けてゆく。

仕方ないさ 六月の雨の精
君が泣いたって紫陽花は咲くように
サヨナラは来るのです
ASIAN KUNG-FU GENERATION 「極楽寺ハートブレイク」

バンドサウンドに乗っているとは思えない、水彩絵の具で描いたような美しい歌詞である。これがギターベースドラムの上で叫ばれて耳まで刺さってくる音楽に出会える時代に生まれて本当によかったと思う。

時期的にまだ紫陽花は咲いていないし、タバコも吸わないし、線路で手を繋ぐような君もいないけれど、短い鋭い痛みをなんとなく分かってしまう。

紫陽花の花の色の移り変わりは、一度咲いてしまえば留めることもねじ曲げることもできない。花の色はうつりにけりないたづらに、だ。小野小町や与謝野晶子が詠んだように、盛りを迎えた自分の身体も、君の心も、自分の感情や気持ちさえも、一度咲いてしまえばもうどうなるか分からない。

10年前にゴッチが歌ってくれていたのに、歴代の文人が教えてくれていたのに、同じ轍を踏んだおれは勝手に辛くなってしまった。
人の気持ちは永遠ではない。
それはわかる。
人の気持ちは意外とわかりにくいものだ。
それは本当にそう。
それなら、見切り発車でもいいから、愛は熱いうちに、愛なのかわからない間でもいいから、どうしてその片鱗だけでも渡さなかったんだろう。
シャイだとか、クールだとか、そういうのもういいです。
自我が本当に憎い。
いっかいしにたい。

…まあ、ただ間抜けなだけな自分に、こんなに文学的な叙情を借りてしまって申し訳ない。
この話はおしまいにしよう。
サヨナラは来る。

まだ少し先の夏の気配を想像して、皮膚のべたつきやひりつきを感じて、根っこはダウナーなままで妙にハイになってしまった。ゴッチが言葉で拾い上げる夏は、別アルバム収録の「夏の日、残像」も然りなのだが、夏という概念に貼り付いたこの独特な気分は、まったくなんなんだろうか。
四季と言葉を理解する生命体すべての気を違えてしまいかねない。

列車がすすむと、ファニーな気分になるベースラインと可笑しみのあるギターが始まった。駅間は短くすぐに長谷駅についた。外国からの観光客も、遠足の小学生も、たくさんの人が溢れていた。

西日
夜の青に溶けだすような
不意に思い出して駆け出す
馳せ参ず
遂に夜の青に溶け出すような
消えないで遠く何処かへ
ASIAN KUNG-FU GENERATION 「長谷サンズ」

題名からしてギャグなので愉快な気分になる。なのに、どう考えてもコミュニケーション不全にもがく主人公が走り出している。長谷寺の拝観料は300円。微妙に濁った池には鯉が泳いでいて、豪華で美しい頭をもたげた牡丹が咲いていた。あまりにヒラヒラの造形美すぎて、周りの自然の緑や白からは浮いた深紅で、アンバランスさとグロテスクさを感じてしまった。
頭でっかちなのは自分の方かもしれない。

展望の階段を上がると海と共存する鎌倉のまちなみが見えた。一日中歩き回っていたので爪先が痺れはじめて、息も上がっていた。そこに、サビの炸裂ギターパワーポップ感。足を止めることは許されず、まだまだ馳せ参ず。

さっきは咲いてもいない紫陽花と一緒に萎れた気持ちになってしまったけど、夜をぶん殴るくらいの気持ちで、もう一度「きみ」の心に切りかかってみればいいのかもしれない。でも馳せ参ず、という謙虚な心持ちで。大衆小説のような言葉で。まだまだ止まれない。

ちなみに、最後のサビは「君 夜の便り」の歌詞を喜多さんと山田さんで歌う。メインボーカル以外が歌う箇所を見せつけられると、何とも言えないいとおしさを感じる。ナイトダイビング、八景、イエロー等の楽曲も同じ理由でグッと来ますね。

(つづく)

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