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アジカン25周年ライブに行った。

アジカンの25周年ライブに行った。

前回参戦は2018年の骨芋ツアー。その時と同じZepp Osaka Bayside。買うつもりがなかったTシャツも、いつの間にか買ってしまった。ライブの日付をいつまでも覚えておきたくて、ツアーTシャツは買わなければと使命に感じてしまう。

会場がブラックアウトして、1曲目はなにかとソワソワする中、鳴り始めるギター。

「フラッシュバック」。続いて「未来の破片」。
「君繋ファイブエム」のはじめ2曲を、あのときの衝動そのままに。一気に加速する会場内。

「サイレン」。「無限グライダー」。
響きに広がりを感じる2曲で、一気に世界が拡張する。思わず天井を仰ぐ。無骨な天井と、ライト。配管。遠い。黒い。暗い。ステージは明るい。伸びやかなサウンドと一緒に、急に手足が伸びて自分が空間に溶けていった感覚になった。

「ブラックアウト」。
たゆたうようなリズムに、タイトなスネアが心地よく、思わずからだが揺れてしまうイントロ。そこからは想像できないくらいホットなサビが2つもある豪華な曲だと個人的に思っているのだが、サビが来るたびに体温が上がる。
”今灯火が此処で静かに消えるから君が確かめて”
この歌詞を初めて聞いたときの、あまりの無責任さ、投げやりさ、そうとしかできない主体のむなしさ、それに共感を覚える当時の私の無力さ、そういう感覚が何度もよみがえる。

「センスレス」。
”現代のスタンダード”という歌詞に(standardをのちにリリースしたので)にやりとするが、その後に鳴らされる響き渡るギターの音が、世界の終末になるとされるラッパに聞こえた。終わった。爽快だ。壮大だ。途中で加速する部分は「来る…来る…!」とゾクゾクした、焦らされて焦らされて、たぶんその場にいた全員がそう思っていた。この曲はアルバム「ファンクラブ」の光。心の奥の闇に灯がともった。

「十二進法の夕景」
イントロが流れた瞬間、あの赤いジャケットが角膜に浮かんできた。「フィードバックファイル2」は狂おしいほど聴いていて、聴いていた頃の、乗っていたバスの座席の感触までよみがえってきた。音楽って不思議だ。タイムカプセルの蓋が空いた瞬間、全身に当時が巻き付いてくる。

「或る街の群青」。
イントロがあけて間奏に入る瞬間と、ラスサビに入る瞬間の、あの叩きつけるようなギターの轟音。これは完全に稲妻。何度でも打たれたい。打たれて嬉しい。

「踵で愛を打ち鳴らせ」
タッタ。あのPVのダンスの動きをしたくて、体がウズウズしていた。多幸感。コーラスが厚い。あたたかい。ふわふわする。

「スタンダード」からの「復活祭」。
この曲たちは、もはや私の鼓動。情熱。ソリッドなギターサウンドが動脈を伝って私を動かす。

「今を生きて」。1日中遊びまわった後の夕暮れの海のような、心地いい虚脱感と、まだ高揚する体と、肌にあたる爽やかな風。この曲ということは…とライブの終盤を感じて寂しくなる。

「エンパシー」で〆。アジカン、ここに健在!という感じでとても頼もしく、誇りに思う。わたしが死ぬまでやっていてほしい。生きる理由になる。

個人的な好みの話で申し訳ないが、私はワワワ前後の中期の曲がとても大好きで、その時期の曲はあまり演奏されなかったのが、正直残念ではあった。1番好きな「サーフブンガクカマクラ」からなにか1曲でも聴けたら死んでいたと思うので、命拾いしたとも言える。というか、名曲が多すぎて、それを押さえるだけで3公演は必要だろう。そんなアジカンはやっぱりすごいと思う。

まだ大学生に見えるカップルから、役員クラスに見えるロマンスグレーの髪をした会社員の方まで。夫婦で参戦されている方も目立った。本当に、各時期のアジカンを好きな人がたくさんいて、いまも好きでい続けるから、あの夜あの場に集まったのだと思うと。すごいものを見たんだな、とあらためて思う。

1つ意外な収穫だったのが、いまなら「ファンクラブ」を理解できるかもしれないと思ったことだ。大学生の時には、正直理解できていなかった。文字列として、その意味内容は頭では理解できたけど、腹落ちはできていなかった。でも、いまなら、社会人として苦悩する今なら、その機微含め、味わえるんじゃないかと。そんな予感を持ち帰りながら、ラーメンを食べた後、自分の家に帰った。

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