サーフブンガクカマクラ巡礼② 江ノ島~七里ヶ浜
江ノ島、いつか来てみたいと思っていた。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 「サーフブンガクカマクラ」の3曲目は「江ノ島エスカー」である。駅に降り立ってから南に行くと、空気や町並みがわかりやすくトロピカルだった。観光客として来たのが何だか急に恥ずかしくなって、その火照った気持ちを囃し立てられている気がした。海岸には六角形のリゾートホテルやマンションが並んでいたが、景観を邪魔することはなく、青い背景と一緒になってカラっとした賑やかさを演出していた。
新江ノ島水族館に行ってクラゲを見た。青や紫の綺麗な光に照らされた、半透明な優雅な生命体を眺めていた。熱帯魚の色鮮やかな光を見ても、深海の陶器のように白い生き物を見ても、海亀がたわむれる人工海岸を見ても、まったく敵わないと思った。
もしおれがライトアップされても、こんなに美しい存在にはなれない。
もし超越する者が上空から人間を見ていて、自分たちが動物園や水族館でそうしてきたように、人間の暮らしや怠惰やセックスを「かわい~」って眺めてくれたらせめて救われるのに、と思う。死んだら来世は透明な水か光になって美しい存在になりたいと思った。
最高だった。
水族館を出たら、波音を聞きながら橋を渡って江ノ島に向かった。港で釣りをするおじさん、マリンスポーツをする若いひと、観光客を船で運ぶおじさん、それと海を見た。
これが、いつも見ている瀬戸内海ではなくて、太平洋であるということがじわじわ感動的だった。
もともと海の持つ叙情に加え、遠く外国に繋がった海というのはロマンが増幅する。
まず太平洋という名前がいい。
もっこりした島に坂道やエスカレーターや建物を絡ませて、その隙間で人間が暮らしていると思うだけでとても興奮した。支配に対する悦びかもしれないし、ある種の美しさを感じたのかもしれないし、神聖な気分でもあり官能的な気分でもある。頂上からは島のヨットハーバーや海を見渡せた。
心の臓はもちろん高鳴ったし、大サビでキー上げ転調するくらいにテンションが上がった。
そういえば大サビでキー上げ転調する楽曲は、アジカンでは他に知らない。あれば教えてほしいです。
また電車に乗った。レトロなお店が立ち並ぶ路面を抜けて、海が見えるところまで来た。まだ海水浴のシーズンではなかったから、派手な水着の人々を目にすることはなかった。海はそこで暮らす人々のものだった。
ところで海とはなんなのだろうか。
海という概念や言葉に貼り付いた叙情がすごすぎて、なんかめっちゃエモい、くらいの認識になってしまっていないか。最近は「海とはもはや感情ではないか」等と考えている。
我々の遠い遠い祖先が生まれたのは海である。
航海する人間の命を奪う気まぐれな自然の代表格である。
海は母性や生命の神秘や崇高さの象徴となったのは容易に想像できる。
ではいつから人間は海に感情を向けるようになったのだろうか。
波打ち際にメッセージを書いたり、想いを叫んだりしたのだろうか。
海がエモーションと結び付くものだという規範が作られたのは、
いつ誰によるものなのだろうか。
自分は、海に対して、
傷だらけの手のひらでわしゃわしゃと頭を撫でられるような、
そのくせ心のひだにそっと寄り添ってくれるような、
粗っぽいけれど包み込んでくれる優しさを感じている。
力強さとアンニュイさと永遠性と儚さを同時に感じる。
自分が育ったのは海から遠いニュータウンだけれども、そばに海があったら、悩みにぶつかるたびに海に身体を浸していただろうなぁと思っている。
たとえ傷口に塩が沁みても、
涙と体液と海水を混ぜてズブズブになって
砂浜を転げ回りたい。
海が見えるエリアになってからは、耳元の曲もテンポと揺れをゆったりとさせた。
「腰越クライベイビー」と「七里ヶ浜スカイウォーク」は
そんな海の両面性を表しているのではないかと思う。
腰越~は、テンポをグッと落としてゆったりとずっしりとギターが鳴っている。絶え間ない波が潮騒になって鼓膜を震わせるように。サビの裏声ボーカルが切ない。泣いても海水で気づかれないけれど、嗚咽が漏れて心がキュウと締め付けられる。
七里ヶ浜~は前の曲の湿っぽさを拭き取って、すっからかんと晴れた日の風の心地よさや肌の軽やかさがスケッチされているようだ。かなりクリーンな音色が心の細かい隙間に寄り添ってくれる。そんな青色の海でもスッキリとならない難しい心持ちが滲み出したようなコード感が、その一筋縄でいかない感じが、切なくて誇らしい。
(つづく)
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