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84小品目 恐れるものなどなにもない

わたしが新日本プロレスを好きになったのは10年弱前のことだ。ケニー・オメガ選手の放つ、片翼の天使というフィニッシュホールドと彼自身の自由なセクシュアリティだったり、時に偏る幅広い愛だったりに惹かれたのがきっかけだ。とはいっても宝塚ほどではなく、終始軽めのファンだし、娘が生まれてからは寝かしつけで、ニュージャパンワールド(月額1000円くらいのプロレスサブスク)すら見られていない。メインの20時代が寝かしつけにドンピシャリだからだ。



そしてわたしが好きだった外国人選手が雪崩式でとつくにになだれてしまった。しかもわたしの大好きなケニーがアメリカで新団体を設立し、その流れを作ってしまってさみしい。そして新日本プロレスという会社のパフォーマンス自体がほころびを度々見せ、とても良くないように感じてしまう。これは宝塚も同じ。エンタメの会社が、演目や興行そのものから気をそらしてしまうようなことをしてはそれこそ「興ざめ」なのである。ショーとは心を熱くするもののはずなのに。



ところでわたしが新日本プロレスを見出した頃、世界一性格の悪い男がいた。

鈴木みのる

である。わたしはケニー・オメガの次に鈴木みのるの結成する鈴木軍に属していたエル・デスペラード選手に惹かれたため、その軍の長には注目していた。彼の発するエルボーはゴツ、ゴツ、と会場に不気味に響き渡り、とても強いのに大事なところでずるいことをしたり、対戦選手を場外に連れて行ったり、椅子で殴ったり、たくさん反則したり、わたしはこの人は強いのになんでこんなことをするんだろうと首を傾げていた。そして反則の末、負けることも多かった。強いのに。



そしてリング外では募金を常に募っていた。そこには「高山」と書いてあった、高山善廣という人のための募金だ。わたしは知らないが、その人は鈴木みのるの友で試合中に怪我をして、今、体が動かなくなって何年も入院しているのだという。わたしは知らない人なので、スルーしていたものの、ある時に友達が小銭を入れていて、

募金するんや

うん

というやりとりをしてから、そうか、知らん人やけど、鈴木みのるがやってるんやから、なんにも考えんでやったらええんやと思ってやった。それは腹が減ったら食う、みたいな自然な流れだった。ごくたまに「エビバデダイ!」(皆死ね!)という決め台詞と水霧で有名なランス・アーチャーもいて、その時は笑顔で「エビバデカモン!」と言っていた。



そしてつい最近、高山善廣がリングに上ったのだという。身体が動かないはずなのに、どうして?と疑問を持ちつつ、その動画を見た。彼は車椅子で、向かいあった鈴木みのるに「立て!」と言われても、指の一本も動かせない状態だった。優秀なレスラーで、鳴り物入りでプライドに参戦して、かつてはファイナルまで伝説の試合で飾った男が、なぜそんな姿を人前にさらすのか、今である必要はあったのか、彼はわずかに顔の表情が動くくらいでくやしくて泣いていた。



わたしは、これを見て言いたいやつは言えばいい、笑いたいやつは笑えばいい、と思った。感動したやつが勝ちだ。必死で生きている人間は必死で生きている人間に文句は言わないし、ましてや笑いはしない。これは鈴木みのると高山善廣の表現の話だが、あなたの生き方も彼らは問うている。なにか後ろめたいものがある人は逃げ出したくなるかもしれない、馬鹿にしたくなるかもしれない、だがそうした時にあなたはあなたを逃げてあなたを馬鹿にしているのだ。



宝塚の演目、スカーレット・ピンパーネルの名曲「炎の中へ」で主人公のパーシー・ブレイクニーは、

恐怖を捨て去り、振り返らずに、炎の中の人を助けるのさ。ためらわずに進めよ、疑わずに行けよ、誇り高く飛び込もう炎へ。

と高らかに歌う。それは高山善廣の掲げる「ノーフィアー」ときっと同じだ。ショー・マスト・ゴー・オン、鈴木みのるの、高山善廣の、あなたのわたしの、人生は続く。



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