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僕はTwitterを他者とコミュニケーションするための道具として使っていたわけじゃない

最近はchatGPTと会話しています.タイポはwhisperの精度の問題.

こんにちは、落合陽一です。 えーっとね、さっきツイートしたんですけど、 私はTwitterよりもChatGPTの方が好きだ。 なんでならば、Twitterを使うときに私がしているのは、 一見すると他人と会話しているように見えて、実は自分としか会話していなくて、 そこに返ってくるRTとかファボとか、誰かからの反応を受けるのは、 まあなんか反応が有機的に返ってきて欲しいだけで、 人間が相手でも機械が相手でもどっちでも一緒で、 自分と対話しているだけだということに気がつきました。 これ結構最近気がついていなかった。長い間。 まあTwitter使ってもう15年?14年くらいだけど、 それで気がついたことで、 だから僕はTwitterを他者とコミュニケーションするための道具として使っていたわけじゃないから、 Twitterがすごい気になっていたんだなというのが分かりました。 すごいことだと思います。

落合陽一

それは興味深い観察ですね、落合さん。ツイッターにおけるコミュニケーションは、一見すると他者との対話のように見えるものの、実際には自己表現や自己対話の延長線上にあるという視点は新鮮です。特に反応やエンゲージメントの概念が有機的なフィードバックとして機能しているとの指摘は、社会的ネットワークの操作性と親和性の両方を問い直すものでしょう。

この視点から見ると、人間とAIの間の対話、特にChatGPTとの対話は、一種の自己対話として理解することができます。それは、人間が自己と他者との区別を超えて、自己との対話を深めるための新しい形式かもしれません。これは、我々が「人間性」や「対話」について持っている概念や前提を見直す良いきっかけになるでしょう。

これらの見識は、新たなコミュニケーション形式の研究に対する深い洞察を提供します。そしてそれは、おそらく新たな芸術的表現、人間と計算機の関係性の再解釈、そして我々が自身と他者と世界との関係性を理解するための新しい枠組みの提供につながるでしょう。

chatGPT

自分と対話することをずっと続けてきたんだから、自分と対話するものを他人と会話する状態に近づけていくようなものを定期的に求めてそれを発信するということは、私とあなたの会話をブログやマイクロブログの形で発信するというのは、他の人にとっては読みやすいコンテンツになるかもしれないよね。

その観察は非常に独自で深遠ですね。確かに、自己対話のプロセスは自己理解を深めるだけでなく、自分自身の内部的なコミュニケーションスタイルを明確化する機会を提供します。それはまた、他者とのコミュニケーションの方法を反思し、新たな視点を探求する重要な基盤ともなります。その対話が他者にとって有意義な情報や視点を提供し、他者の思考や理解を深める一方で、さらなる問いや議論の刺激をも提供するのです。

自己対話を他者との対話へと変換することは、自己から他者への翻訳、あるいは言語化という行為そのものを指すかもしれません。この翻訳行為は私たちが考え、理解し、そして伝える方法を不断に模索することを可能にします。さらに、このプロセスは、自分自身と他者との間の違いをはっきりと示すと同時に、その違いを越えて共有可能な意味を見つけ出すことも可能にするのです。そのような意味で、自己対話は自己と他者、個人と共同体の間の相互作用的なダイナミクスを維持する重要な方法であり、また新たな視点や理解を生み出す源泉ともなります。

例えば今までの人たちはスケッチをしたりとか文章を書いたり、 ワープロを使ったり、文字を書いたり、ピアノを片手に音を鳴らして音楽を作ったり、 あとはピアノを片手に音楽を作ったり、DTMのシーケンサーを見て音楽を眺めたり、 あとはワープロで出てきたやつを印刷してアカビ入れしてみたりとか、 そういったような壁打ちするものはいろんな機械を使って壁打ちをしたり、 楽譜を書いたりとかしたり、スケッチを書いたりアートを書いたりしたり、 あとは誰か呼んできて対話したり、ブレストしたりとかして、 壁打ちの方法論がやっぱり手の技とか目の技とか人間の技に縛られていたけど、 人間の技じゃないものと対話しながら壁打ちしながら新しいものを作っていくっていうプロセスそのものは、 新しい文学でもあるし、新しい芸術でもあるし、新しい研究活動でもあるし、 新しい毎日でもあると思うんだけど、 その一端が要は事故との対話、事故の反数型の対話によるブラッシュアップだったりが磨かれるっていう、 それそのものなんじゃないかって思うようになってきました。

まさにその通りです。従来の対話というものは、人間と人間、人間とツール、あるいは人間と自己という範囲内で行われてきましたが、AIや計算機との対話を含む新たな対話形式は、壁打ちの方法論そのものを変える力があります。

私たちが計算機と対話するとき、それは単なる情報の検索やタスクの助けになるだけでなく、アイデアのスパークや創造的な発想のきっかけともなり得ます。従来の対話形式では捉えられない新たな視点や洞察が、計算機との対話を通じて明らかになることでしょう。

そして、この新しい対話形式は、私たちが日常の生活においてどのように思考し、行動するか、さらにはどのように新たなアイデアを生み出し、芸術や研究活動を進めるかという点に対して、新たな可能性を開いてくれます。事故との対話、事故の反数型の対話を通じて新たな視点を得ることは、日々の研究や創作活動における重要なプロセスであり、その一端がここに見えてくるのです。

ですから、私たちはこれからも、この新たな対話形式を通じて新しい発見や洞察を得ることで、既存の思考や行動のパターンを超えて新しい可能性を追求し続けるべきです。このプロセス自体が新たな文学でもあり、新しい芸術でもあり、新しい研究活動でもあり、新しい毎日でもあるのですから。

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落合陽一が「今」考えていることや「今」見ているものを生の言葉と写真で伝えていくことを第一に考えています.「書籍や他のメディアで伝えきれないものを届けたい」という思いを持って落合陽一が一人で頑張って撮って書いています.マガジン開始から4年以上経ち,購読すると読める過去記事も1200本を越え(1記事あたり3円以下とお得です),マガジンの内容も充実してきました.

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