技術と出会うことでしか見れない風景や未来の青写真は歴史や伝統とどういう接続をしているべきだろうか,10年後の君は常設展でどういう風景を見るんだろう / 計算機と自然,計算機の自然(3)
落合陽一です.今回は日本科学未来館の常設展「計算機と自然、計算機の自然」を作る際に考えたことを書いていく連載シリーズの第三回目.
何度でもいうけど,色んな人の力添えでできた展示なので,お世話になった方々に最大の感謝を込めて,始まったばかりだけど振り返っていきたいと思う.前回までを振り返りたい人は下記のリンクから.
初回は写真編なのでマガジン購読者じゃないとサムネが出ない…
技術と出会うことでしか見れない風景や未来の青写真は歴史や伝統とどういう接続をしているべきだろうか,10年後の君は常設展でどういう風景を見るんだろう
未来には色がないのか,色があるのか.青写真といいながらサイアノプリントを刷り上げても見つからないし,形のないコンセプトに手触りのあるコンテクストで未来を描いていくかを悩んでいた.
歴史が断絶するようなSFにリアリティを感じない.
ちょっと先の未来から振り返って見ても,今の古典的なコンテンツは古典的な形をしているだろうし,和歌は和歌で,馬は馬で,壁画は壁画のまんま,デジタル的な解釈を注釈に加えながら,SF的な文化の断絶なくきっと存在しているんだろうと思う.
ちょっと先の未来をイメージすることさえ難しいけど,練り上げられた歴史は血脈になって僕を作っているし,未来の子どもたちの血脈も,僕の見ている風景が滾らせるこの血の流れと,10年ちょっとじゃ変わらないはずだ.歴史や伝統の系譜の中にデジタルもあるはずで,結局,人間で,文学で,民芸で,用の美だ,ってことだと思いながら,それでもトランスヒューマニズムに思いをはせる心を片隅に置いて,紀貫之と飛鳥美人になりきりつつ,環境がデジタルに変換されていく夢を眺めている.和風でまとめたいんじゃなくて,ここの座標から見たら未来でも血脈が古典を忘れられないって話なんだけど,それをできるだけ伝わりやすく作るにはどうしたらいんだろう.
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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