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最近感じたエモについての考察

最近テスト期間が始まった。
僕は期限と義務に弱いから色々鬱々してる。
まあコツコツやってくしかない、コツコツが苦手な体質だけど。

土日は警備員のバイトを入れてた。
土曜はなんとか行けたけど、日曜は軽い熱中症にかかって早引きした。
仕事自体はそれなし暇で、ゆるーく過ごしてた。
バイト中はスマホ使っちゃいけない決まりになってるからボーっとしたり寝たりお喋りしたり瞑想したりしてた。
いい感じにデジタルデトックスが出来るからこのバイトはそんなに嫌いじゃない。
ただ体力がない、すごく。

土曜の帰り道、電車を降りるとなんかすごい良かった。
懐かしい気分というかエモい感じというか。
夕暮れのぬるい空気感とか。
ひぐらしの鳴き声とか。
汚い川の生臭さとか。
釣りしてる人がいたり。
打ちっぱなしのゴルフボールがコツコツに響いてる音だとか。
本来不快に思えそうな要素も全部この「夏」の雰囲気を作り出してる気がした。
今年の春引っ越したばかりで夏にこの道を通るのは初めてなのに、懐かしい気分になるのは不思議に思えた。

僕の好きな数学者の岡潔がエッセイで懐かしさっていうのは頭頂葉で感じるものだって言ってたな。
焚き火を見てなんかいいなって思うなどの、頭頂葉に刻まれた原始の人々から受け継がれてきた感性が懐かしさを生んでくれるって。
頭頂葉は人間の脳の中で直感的に神仏の心や自然を感じる機能を果たしてる。
僕らは普段意識・理性を中心に、つまり言葉や感情、情報の整理を司る前頭葉をよく使って生きている。
事務作業とか勉強みたいな現代人の仕事の多くは前頭葉偏重のものが多い。
でも頭頂葉は人間の無意識で機能しているから、理性ばっかりを使っているとエモくなれない。

今回は疲れとリラックスがトリガーだったんじゃないかな。
頭も身体も疲れて前頭葉が働きづらくなっていた。
それに仕事が終わって心が弛緩して、それで頭頂葉が働きやすくなっていたんじゃないかな。
それで初めて通る夏の夕暮れの道になんか懐かしさを覚えてたんじゃないかな。
一回前頭葉をクタクタにさせる、理性が働きづらくなる瞬間を作ることが大事な気がする。
禅の目的も心身の衝動に振り回されないようにしてひたすら観察に努めるという前頭葉の抑制の機能をフルに使って前頭葉を疲れさせ頭頂葉の気付きの機能を高めるところにあるし。
念仏や法華経を唱えるのは、宇宙のリズムや阿弥陀如来の救いなどの理性を超えたものを徹底的に信じ込ませるところにある。
仏教というのは如何に理性と付き合っていくか臨床的にアプローチして、理性の副作用に気づいてちゃんと対策を用意してくれていてる。
だからやはり理性が暴走しがちな現代人には合ってる気がするなあ。

疲れてるだけじゃ多分ダメで緩和の時間も必要なんかも。
心身が緊張しっぱなしだと感性は落ちる気がする。
自意識が過剰になってたりとか、仕事しっぱなしだったりとか。
理性っていうのは意識だから自意識だとか緊張を生む気がしてるから、どっかで緩くならないとエモくはなれない。
あと疲れなさすぎても悪い疲れを生む気がしてる。
ニート系の人に多いと思うし僕にも経験があるんだけど、変に引きこもり過ぎると暇に耐えれなかったり自他の比較をしちゃって自意識が暴走しちゃう傾向にある。
で、どんどん鬱っぽさが悪化しちゃったり感性が鈍くなっちゃったり。
なんというか緩ーく空間とか文章とかに自分を溶け込ませていく時間を取れるといいのかなあ。
適度に緊張と緩和が大事っていうのはどっか筋トレと近そう。

似たようなことは僕が浪人してた時にもあった。
茨木のり子さんの「詩の心を読む」という詩集があるんだけど初めて読んだ時は別段感情が動かなかった気がする。
でも浪人のとき(僕の中では)めちゃくちゃ勉強してクタクタになってからその詩集を読んだ時凄く感動した。
泣きそうになるくらい感情が揺さぶられたのを覚えている。
詩って言うのは俳句とかと一緒で圧縮された言語を用いて作られていて、どっちかっていうと理性よりも感性の方が重要な気がする。
読んだ詩に書かれていることは何となく分かる程度のものだったんだけど、この「何となく」という感じ方が大事なんだろうな。
分かっているという確信が自分の中に実感として在ることが大事な気がする。
下手に言語化しようとすると違うものになってしまうとも思う。
言語化しないと人には伝わらないんだけど言葉にする過程で伝えたいことがどっかに行ってしまわないようにしなきゃいけない。
このギリギリを攻めてるのが詩や俳句なんだろう。

昔は頭で考えればなんでも分かるとか、理性が大事なんだと思い込んでいたけど最近はそうでもない気がするな。
もちろん頭を使うのは大事なんだけど、頭でっかちも心身が病んじゃったり人間味がなくなったりして良くない。
現代人のメンタルヘルスが悪化してるのは、間違いなくこういうところにも要因がある気がしてる。
心や頭、身体が色んな働き方ができるのが大事なのかも。
文章もnoteを書いてるときとXに投稿してる時は頭の使い方、心の動き方に違った良さがある。
なんか色々楽しみたいな。
陳腐な結論だけど色んなことが楽しめてたら、感性や理性、野生などがそれぞれバランスよく磨かれてくんだろうな。

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