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スキで教養を深めていく

僕の好きなnoterさんがフォローしている人のnoteを最近読み込んどっとった。
そしたらその人のことも僕は好きになってしまった。
その人はよくその人が好きな精神科医の名越康文さんの話をする。
一個名越先生の出ているYoutubeの動画を紹介していて、それを見てみたら面白かった。
それで他にも色々検索にかけて名越先生が出ている動画を見漁ってみたら名越先生のことも好きになってしまった。
僕は人を簡単に好きになる。
それは僕の良い点やなと個人的に思っとる。
教養がつきやすいからや。(別に僕は全然教養のある人間ちゃうけど)
今日は少しだけ教養について語ってみたい。

教養ってなんやろか。
ネットで検索にかけてみたけどデジタル大辞泉の説明が一番好きやったから引用する。

①教え育てること。

ア学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
イ社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。

デジタル大辞泉

この説明の心の豊かさってところが好きやなぁ。
そう、別に知識があることだけが教養じゃないんよなぁ。
知識を身に着けようとする姿勢も含めて教養な気がする。
あと教え育てることが入ってるのもええなぁ。
この説明と僕の実体験から、僕は教養っていうのはこう定義したいな。
「人の好きなものについて話す、語り合うためのコミュ力とか知識、経験。または人の好きなものを知ろうとする活力や姿勢。」

僕の実体験を例として挙げたい。
以前母と話しててなんかのきっかけで高校数学の話になった。
マイナス×マイナスはプラスの証明とか、微分の説明するのってムズいよなぁって話になった。
でも母は微分の説明できるでって言ってた。
その点においての瞬間の傾き、その点とめちゃくちゃ近い点との直線の傾きを計算するのが微分やって。
母は昔から数学が苦手やったっていうのを聞いたから、その説明がめちゃくちゃわかりやすくてビビった。
「なんでそんな説明ができるん?」って僕が聞いたら「あんたが昔私に教えてくれたんやん」って言われた。

確かに僕は受験期に母に数学の話をよくしとったような気がする。
数学は苦手やって言う母に半ば無理やり、微分積分の定義やら証明やら、難しい問題の解き方やらの解説をしとった。
数学が苦手や嫌いやって言う母に数学が好きになって欲しかったんやろう。

好きな人には自分の好きなものを好きになって欲しいもんねぇ

野田サトル「ゴールデンカムイ」より 海賊房太郎のセリフ

そしたら段々と母も数学のことが分かるようになってきた。
問題が解けるようになったわけちゃうけど、解説の理解のスピードが増したり解説の途中で解法のざっくりした予測をしとる時が出てきたりした。
数学アレルギーの母が、ある程度の高校数学に関するセンス、知識を僕と共有するに至った。
これが僕は母の数学に関する教養が深まった瞬間なんやと思う。

未だに微分の説明を覚えてるのとか解説を聞いてくれてたのとかが不思議になってなんでなん?って聞いた。
母は「あんたが楽しそうにしとったからやん」って答えた。
「それで私も楽しかったよ」とも言ってくれた。
ああ、そうやなぁ。
あん時楽しかったなぁ。
教えてる瞬間、自分の好きなものの話をしてるのが、好きなものに関する知識・思考を共有してるのが楽しかったんよなぁ。
僕のそういう楽しい感情は母にも伝わってたんや。
あの時母に数学を教えてたおかげで、人にものを教えるのが多少うまくなった気がするし、そもそも教えることも好きになったな。
教えることで数学の理解も深まったような気がする。
僕の数学、教育の教養も深められたんやろな。

受験期数学を教えてるとき、母がマーカス・デュ・ソートイという人の書いた「素数の音楽」という本を買った。
昔の数学者のエピソードや偉業を面白く紹介していく中で素数の歴史について語っている本やった。
なかなか骨太な本やけど母の方が先に読んでしまって、お前も読んでみろと言われた。
結構大変やったけど面白かった。楽しく読めて素数に関するふわっとした知識、感覚が身についた(のかな?)
僕が本を読むときは大体こんな感じや。
実は自分で本を探すことはあまりしない。
自分の好きな人が引用してたり、おすすめしてるのを読むのが多い。
大抵自分にヒットする、それで書いた人もおすすめしてくれた人のことももっと好きになる。

教養について語られた文だと、太宰の「正義と微笑」も好きやなぁ。

勉強というものは、いいものだ。
代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。
勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。
つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。
勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! 
これだけだ、俺の言いたいのは。

太宰治「正義と微笑」より 黒田先生のセリフ 

カルチャーとかカルチべートって言葉を使ってるのが好きなんよな。
カルチャー(Culture)って色々意味があって、一つに教養、一つに耕作って意味があるんよ。
カルチべート(cultivate)は培うって意味と耕すって意味がある。
不勉強なエゴイストが悪いのは、知識がないのよりも愛がないことなんよな。
勉強を通してこれから愛せるかもしれなかった誰かを愛そうとしなかったことがあかん気がする。
変なダジャレやけどスキ(好き、鋤)で自他をカルチべートしてくのがええんちゃうかな。
そうやってスキのカルチべートの連鎖をしてった結果、文化としてのカルチャーが成熟してくんちゃうやろか。

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