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塾の先生

 小学校4年から高校3年の途中まで通った学習塾は、15階建てのマンションの一室にあった。玄関を入ってすぐ右側にある6畳ほどの洋間に、長机とパイプ椅子と本棚が置かれ、ホワイトボードが壁にかけてあるだけの簡素な教室だった。平日の夕方5時からと、7時半からの2つの時間枠で、小中学生の補習から大学受験対策まで、幅広い指導がそつなく行われていた。
 今思い返せば驚くべきことだが、これらすべての指導をひとりの先生が担当しており、教室はこの先生の居宅内に設けられたものであった。先生は東日本の田舎町の出身で、合格したときに「町をあげて祝われた」という東京大学文学部を卒業してすぐ、学友と一緒に学習塾を立ち上げたらしい。なんらかの事情で学友が講師を降りたあとも、先生とその人の名前から一文字ずつ取って付けた名称を使い続けていた。

 中学受験をしなかった(興味はあったが、経済的な理由からできなかった)にもかかわらず、私が小学校4年にして学習塾への入塾をせがんだ理由は、当時の担任が、忘れ物などをした児童への説教で毎日1時間以上を費やす、モンスター教師だったためである。そのような公立学校の現況に当てられて、家にお金があって且つ優秀な同級生たちが、競ってNマークの青いカバンを背負い始めるのを見るうちに、私は漠然と自身の将来に不安を感じるようになった。このことを母に訴え出ると、「月謝が非常に安い」点が決め手となり、同じ社宅に住む同級生と一緒の塾に通うことがすんなり決まった。

 小学生の頃は、同じ時間帯に5人の同級生と机を並べていたが、5人中4人はいつの間にか辞めていってしまった。残った私ともうひとりは、このクラスの中では勉強ができる方で、教科書先取りの授業を難なくこなして、先生の求める水準に応えていた。当時の私は「勉強ができれば先生に気に入られて、塾に楽しく通い続けられる」と考えていた。しかし、中学に入ると、それが必ずしも当てはまらないという事実を目の当たりにすることとなった。

 高校受験を前にして、どこからか評判を聞きつけた中学の同級生が、つぎつぎに塾の門を叩いた。ところが、もともと学校の成績が良かった生徒を含め、過半数が3ヶ月以内に教室を去っていった。楽しく通っていた私は疑問に思い、辞めた同級生たちに理由を尋ねると、どうやら先生の「クセの強さ」が原因らしいことがわかってきた。
 先生は「若者文化を知るため」として、民放のバラエティ番組を積極的に視聴していた。なかんずく、当時一斉を風靡した「エンタの神様」から、先生は多大な影響を受けたようである。
 その結果、指導の随所に「あ~い、とぅいまてぇ~ん!」や「チクショー!」などのネタが盛り込まれるようになった。私を含む何人かはその迫真のモノマネにゲラゲラ笑っていたのだが、「東大卒の講師による激安個別指導」に期待をかけていた生徒たちは、東大卒講師への「ですよ。」や「コウメ太夫」の憑依を快く思わなかったのである。私は笑いながら勉強した甲斐あってか、あまり苦労せず志望校に合格した。

 高校入学後も勉強の癖を維持するため、塾通いを継続することになった。学校の授業はどんどん難しくなっていくが、月謝は小学生の頃から据え置きである。入学から時間が経ち、部活やら文化祭やらでペースを乱していく同級生が増えると、塾通いの私の成績は相対的に上がっていった。
 この頃の私は、成績向上よりも、先生と会話できることのほうに塾通いの恩恵を感じていた。リア充(この言葉はいつのまにか死語になってしまった)ばかりの校風に馴染めず、目当てに入学したはずの部活でも、努力ではどうにもらない不調に苦しんでいたため、私にはほとんど友達がいなかったのである。加えて、家庭内もさまざまな要因が重なって荒れていた。安心してコミュニケーションをとれる人が減っていくなかで、小学生の頃から変わらずあり続ける塾だけが、心の拠り所になった。

 帰り際に家族の愚痴を垂れるなど、突然甘えた態度を取り始めたであろう私に、先生は私生活の実態を徐々に明かすようになった。とはいえ、明け透けな人間関係の話題なんかは一切なく、語られるのは「インド株で資産を増やしている」といった、当たり障りのない高度な生活情報ばかりであった。おそらく、主たる収入源は塾講師ではなく投資であったのだろう。このほかにも、音楽の話や趣味のスポーツ観戦の話などを興味深く聞いた。また、教室に何気なく設置されていた本棚に並ぶ本は「一応中高生向けに選書したもの」と、高校に入ってから初めて知らされた。私はたしか『生物と無生物のあいだ』だけ借りて読んだ。

 印象に残っていることがある。あるとき、私は先生に「良い大学に入ると、どんなメリットがありますか」と尋ねた。こんな愚かな質問をしたくなったのは、私が親族の学歴コンプレックスにうんざりしていたうえ、容姿端麗な同級生(の女子)と同じ大学に入ったとしても、その後の人生で負けるのは決まりきっている、と悟りつつあったからである。
 先生は「面白い人に出会える確率が上がる」と答えた。東大時代の同級生のなかには、学術や産業の世界で活躍する人たちだけでなく、芸術やスポーツの分野で頭角を現す人もいて、そういう人たちと親しい間柄になれたのが一番の収穫だった、と説明してくれた。
 なるほどそうかもしれない、と納得はしたものの、凝り固まった価値観をひっくり返すほどのインパクトがなかったため、当時の私は少々がっかりした。しかし、大学入試をとっくに終えた20代半ばごろから、私はこの回答を思い出しては反芻するようになった。易きに流れないようにモチベーションを維持する理由なんて、面白い人との出会いへの期待くらいしかないのではないか、と。

 高3になって部活を引退しても、成績が伸び悩み、特段目標も持てなかった私は、文化祭で使う看板のラフスケッチを見た友人からの「美大受験とか考えなかったの?」との言葉を受けて、「そうか、世の中には美大というものがあるのか」と気づいた。時は高校3年の夏であった。本当に愚かである。
 母からは「中途半端な名前の大学に行くなら、芸大美大のほうがかっこいいでしょ」と意外にも背中を押され、私は高校の美術教師が勧めてくれた予備校に通うため、塾を辞めることになった。とはいえ、長年通ってきた塾を離れるのには後ろめたさがあり、数ⅢCまで根気よく指導してくれた先生に何から説明したらよいか思いつかず、情けなくも電話を母にお願いした。曰く、最初は「どうしちゃったんですか?まあ数日経てば考え直すでしょう」と驚かれたそうだが、1週間後に同じ電話をすると「もうわかりました」と、めんどくさそうに電話を切ったとのことだった。

 美術予備校に入ってからというもの、なんとかして同じ現役生のレベルに追いつくべく、石膏デッサンと静物着彩に明け暮れているうちに、入試までの数ヶ月間はあっという間に過ぎた。
 塾のことを久しぶりに思い出したのは、高校を卒業する3月に、同じ塾に通っていた中学時代の同級生から「先生、3月いっぱいで塾やめるって。あんたのこと心配してたよ」と聞かされたときだった。

 その後の先生の消息はわからない。先生は、塾講師業を通して年若い生徒たちとの交流を楽しんでいるように見えたが、一方で「早く隠居して死にたい」とこぼすこともあった。その泰然自若な言いっぷりは、先生ならば好きなときに死んでも別に良いのではないか、と思わせた。
 だが、不義理な一生徒の勝手な願いを言うなら、できれば今も元気でいてほしい。塾をやめてから、中島みゆきの「夜会」には行けただろうか。変わらず東京ドームに野球を見に行っているだろうか。
 再会はおそらく叶わないし、会っても立派な姿など見せられそうにないが、当時の先生の年齢に近づくにつれて、また思い出す機会が増えるような気がしている。

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