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#578:ルーシー・ワースリー著『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』

 ルーシー・ワースリー著『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(原書房, 2023年)を読んだ。原書が刊行されたのは2022年とのこと。先日、新聞の書評欄で取り上げられているのを見かけて、ここのところ、クリスティー作品の再読(一部、初読、再々読)に取り組んでいることもあり、クリスティーの伝記には触れたことがなかったので、この機会に読んでみようと思った。

 本書は結構分厚いハードカヴァー本。はじめに16ページにわたって少女期から最晩年までのクリスティーやその関係者の写真が掲載されているのが興味深い。とりわけ、亡くなる少し前のものとのキャプションのある写真は、書斎の机に向かって置かれた椅子に、クリスティーが脚をきちんと揃え、左腕を椅子の背にかけてカメラをしっかりと見つめた全身のポートレイトで、その老いて小さくなった姿と、輝きを失っていないブルーの瞳はとても印象深く、畏敬の念さえ覚えてしまう。

 10代の頃を中心にクリスティーの作品を相当数読んだ割には、私はクリスティーの生涯については、例の“失踪事件”のエピソードや、考古学者の夫と再婚したこと以外にはほとんど何も知らなかったので、内容のすべてが新鮮であった。作家としては世界的な成功を収めたクリスティーが、一人の女性としてはさまざまな困難に出逢いながらその生涯を生き抜いたこと、人生上の課題が、それぞれの時期の作品の一部にどのように影響を及ぼしていたか、家族に対する思いの強さと、さまざまな葛藤を抱えたそのパーソナリティのあり方、これらのことが著者の要領の良い手際でくっきりと描き出されているという印象を受けた。

 アーカイブに収められた私的な手紙などの膨大な資料を駆使して本書に描き出されたクリスティー像は、あくまで著者の視点による一つの描像で、異なる著者が同じ資料や別の資料を探索すれば、また別のクリスティー像が描かれるのだろう。伝記とは本来そのようなものなのだろうし、だからこそ複数の伝記を読み比べることで得られるものがある。本書の中にも、先行する公式、非公式のクリスティーの伝記作家の見解に対する著者のコメントがところどころに見られるが、同様に、今後本書を参照しつつ、また別の角度から、別の著者が新しいクリスティー像を描き直してくれることを楽しみにしたい。

 最後に、訳文について一言メモしておくと、訳者の労力には敬意を払いつつも、私には不満に感じられる箇所がかなりあり、万全の訳文とは言いかねるところが惜しまれる。とは言え、私は本書を大いに楽しんだので、本書を訳出されたその仕事には感謝したい。