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#580:リチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』

 リチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』(岩波書店, 2000年)を読んだ。原書が刊行されたのは1989年とのこと。つい先日、朱喜哲著『NHK 100分 de 名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯』(NHK出版, 2024年)を読んだばかりだが、さっそく本書を読んでみることにした。

 一度読んだくらいで十分に理解できるはずもなく、また、まとまった感想を述べる力は私にはないので、印象に残ったところについて、思いつくままにメモしておく。

 第Ⅰ部偶然性では、真理に漸進的に近づいていくというタイプの真理観、あるいは知識観、言語観が否定される。私たちは究極的に真理に到達することを目指している/目指すことができるのではなく、ある記述を別のやり方で記述し直すことを繰り返しているのだというのが、著者の立場ということになるようだ。したがって、言語の体系の間に優劣はなく、どの言語もそれぞれのやり方で私たちを取り巻くものごとや出来事を描写するべく、あるいは対人間のコミュニケーションを営むために用いられるという点では、基本的に同等であるということになる。

 そのような文脈でということにもなるが、フロイトの仕事に関する著者の読解は興味深い。著者の見解は、次の文章に凝縮されていると言えると思う。

フロイトは高きものと低きもの、本質的なものと具有的なもの、中心的なものと周辺的なものに関する、伝統的な区別の一切を解体する。彼が私たちに残してくれたのは、少なくとも潜在的にはよく秩序づけられた諸能力の体系ではなく、偶然のかたまりとしての《自己》なのだ。(p.69)

第二章 自己の偶然性 より

 カントの人類に普遍的に想定される実践理性との対比で、フロイトは歴史的に偶然的で私的な個人の道徳意識のあり方を解明したという点で、新しい地平を開いたのだというのが、この文脈での著者の読みである。例えばここに、著者はロマン主義的な私的な領域を確保する足場の一つを見出しているのだと思われた。

 第II部の主題は、著者が呼ぶところのアイロニスト。私的に創造的にアイロニストとして生きることと、公共的にリベラリストとして生きることを両立させることには矛盾がないこと、むしろ私的な領域と公的な領域を統合しようとしてはならないという主張が、著者の眼目であるようだ。公共の領域でのコミュニケーションとそれによる合意を重んじるという点で、著者の主張はハーバーマスの立場を思い起こさせるものだが、著者自身、ハーバーマスとの見解の共通性を認めつつも、対話的理性を私的領域にも行き渡らせようとするハーバーマスの姿勢に対してははっきりと批判的である。ただ、私の印象では、第二次大戦下のドイツを経験したハーバーマスが、それらの領域の両立という考えに強い警戒感を抱くのは理解できるような気がするし、実際、それらをどのようなバランスのもとに生きていくかという問題は、決して楽観して良いことであるようには私には思えない。むろん著者もそれを容易なこととは考えていなかっただろうとは思うが・・・。

 第Ⅲ部の主題は、連帯。ここでは、ナボコフとオーウェルがそれぞれ一章をあてて論じられており、そこでは、他者が被る、他者の身に降りかかる「残酷さ」に対する、それぞれの作家の、そして読者の、さらには私たちの感受性のあり方と向き合い方が問われている。他者の“痛み”への想像力の働きを重んじること、普遍的な「人間性」(著者はそれを形而上学的フィクションとみなす)への同一化ではなくて、そうした想像力を私たちの連帯の重要な契機とすること、こうした著者の立場は、さまざまな領域における“ケア”を重んじる、近年次第に力を得ているように思われる立場ともつながるものだろう。

 本書は、アカデミックな哲学書であるよりは、社会や政治を志向した実践的な行為をめぐる思索の書として読まれてきた本であるのかもしれない。しかし、私としては、著者が主張している内容以上に、その主張の背景にあり、その主張を形作ってきた著者の思索を支えているモメントの方に、より深い関心を寄せたいと思う。いつかまたどこかのタイミングで再読する本になりそうだ。