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お茶碗の安心

 お正月、金沢の祖母宅へ帰省していた友人が名古屋に帰宅して私に言った。

「お茶碗でお米を食べる安心ってすごい」

突然のひと言に上手く想像ができなくて「安心?」と聞き返す。

「そう、器とは言えないもので食べたから」

缶詰
レトルトのパウチパック
プラスチック容器

避難をしたときの食事を“自分の手元”のレベルで想像したことがあったかな…

我が家に置いてある避難用グッズの中身を広げて思う。

「不安かも」

防災リストというものを元に準備したそれは、
日常で食べたことのない食品
日常で着たことがない肌着
全く落ち着かない色のビニールシート
……どれもこれも、使うことを想定していないものに溢れていた。
なかなか想像が及ばないその時間について、意識するのはやはり難しい。

ひとまず、バッグの中身での生活を考えてみる。

「手で食べようとしてるな」

器どころか、箸がない。
割り箸をキッチンに取りに行こうとして、友人の言葉をもう一度思い出した。
「お茶碗でお米を食べる安心……」
器は難しいかもしれないけれど、箸だったらもしかして
小さくても安心に繋がるだろうか。

普段使っているものと同じ箸を缶詰の隣に入れることにした。
バッグの中身に日常が入り込んだみたいで、少し楽になった、と思った。


 安心というものはどんな状況でもたぶんきっと必要で、“不安の想像”は怖いけれど“安心の準備”なら小さくてもできる気がする。

友人がわたしにくれた「お茶碗の安心」は、日常という普段は気が付かないあたりまえが、わたしに与え続けているエネルギーへの気づきだった。


自分のお茶碗がある場所は、いつだって自分の帰る場所だ。


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