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分類のジレンマ

言葉を使って分類したいという欲求がある人は、言葉で周知できる状態にしておかないと居心地が悪いのかもしれない。
未分類のままでは、自分の居場所が分からなくて生活に支障をきたす不安みたいなものを感じるのかもしれない。

ある対話を聴きながら考えていた。
人の性別についての対話だった。

分類に対する欲求がそこまでないなら、少なくとも今は支障が出るほどの居心地の悪さではないってことになりそうだ。

そしてこの欲求がそこまでない場合、
みんな違ってみんないい。とか、
地球上にいる78億人分の性格や性質があるはずだよね。とか、
四字熟語でいうところの十人十色みたいな感覚になりがちかもしれない。

私はどちらかというと、細かく分類をするのは論文を書く時くらいでいいのではと思ったりしている。
バイキングで並ぶ、ひと口サイズの美味しそうな料理たちと似ている気がする。

例えばパプリカとクラッカー、クリームチーズが乗っている料理があったとする。
クラッカーの傾き、パプリカの形、クリームチーズの塗られ方。

同じようで、よく見ると少しずつ違う。
だからといってそれぞれの違いを、食べようとする人に説明することはない。

個人的に、分類を言語化する行為は言葉で雁字搦めにするような感覚がある。
どこまでも分類した先にあるのは、理解される世界ではない気がするからそんな風に思うのかもしれない。

分類を細かくすればするほど、分かりやすさからは遠ざかる。分かりやすさが遠ざかると、認知の難易度は上がる。
分かってもらいたくて分類、言語化したのに、理解してもらうことが難しくなるジレンマが、対話の中で生み出されていた。

それでも、なんらかの理由で細かな分類を言語化する人は、大きく括った言葉に強い違和感を示している気がした。

いやいや、そんな綺麗事でできてないよ世の中…と。
みんないいって、実際はそうなってないからこんな思いをしているよ私は…なんでわかってくれないの…と。

対話の場に緊張が走るときは、それぞれが抱いている感情の温度差が原因のような気がした。
どちらが良い悪いの話ではないし、お互い責め合いたいわけでもないはずなのに、気づいたら言い合いになっている。
真剣さゆえに生まれる空気なのだと思った。

身近にいる人の理解があるかどうかによって、分類して説明したい欲求の度合いは変わりそうな気がする。
わかってほしい欲求が高ければ高いほど、わかってもらえる人や環境が自分の近くにない可能性がある。

似たような欲求を持つ人同士が近くにいて、感情を共有できる場の存在は尊い。
知りたいと思う人と、知ってもらいたいと思う人が、やわらかく繋がることのできる場を作れたらいいな。
そんな風に思えた時間だった。

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