けものフレンズ3における外の世界

以下、けものフレンズ3 8章のネタバレあり↓↓↓
























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↑ けものフレンズ3 8章1話バトル2より

けものフレンズ3の世界(そしておそらく、その少し前の話であるNEXONアプリけものフレンズの世界)では、アニマルガールを信じている人はほとんどいないらしい。

ミライさんによれば、

映像編集技術が高すぎ、またアニマルガールはジャパリパークの外に出られないため、存在を信じてもらえない。学会でもまともに扱ってもらえない

しかし、いくら映像編集技術が高いとはいえ、そのようなことがありえるだろうか?

真実と虚偽の境界

現実世界において、ある出来事を真実だと多くの人が認めるためには次のような方法がある:

・大手マスメディア、大手学会発表などの信頼性の高いメディアによる報道

・SNSによる拡散など多数の発信者による証言

逆に言えば、マスメディアにも取り上げられず、学会でも扱われず、多数の人による証言もない場合は、多くの人が真実だと認定するのは難しい。

しかし、もしジャパリパークのようなものが現実世界に現れたとしたら、多くの記者による取材合戦になるなどして、すさまじい速度で真実として拡散するだろう。なぜ、けものフレンズ3の世界ではそうならないのだろうか?

可能性として、次のようなものを考えた:

1. ジャパリパークへの立ち入りや取材が制限されている

2. 信頼性の高いメディアが存在しない

3. メディアが到達困難な場所に存在している

1. は一番ありそうな設定であるが、そもそもジャパリパークは「突然出現した海洋島に世界中の動物が集められ、オープンの日を待っている超巨大動物園」であり、仮に立ち入り自体が制限されていても、多くの報道が行われるであろうことは容易に想像できる。

このことは、同時に仮説3. の説得力を弱める。けものフレンズ3の世界には大型船もヘリコプターも存在する。にもかかわらず到達すら困難な場所にレジャー施設を作るというのは不自然である。

となると、仮説2. 信頼性の高いメディアが存在しない であると考えざるを得ない。

もし中世より前の時代であれば、そういったことも珍しくないだろう。しかし、印刷技術の発展による新聞の普及から始まり、ラジオ、テレビといったメディアが次々に生まれてきた現代において、そういったことはありえない。けものフレンズ3の世界には電子機器があり、個人による「配信」を受信できることも判明している。さらには、ミライさんの証言から「学会」というものが存在していることもわかっている。

にもかかわらず信頼性の高いメディアが存在しないという状況があり得るのだろうか?

教育と真実

ここまでの条件を整理してみよう。

1. 信頼性の高いメディアが存在しない

2. 技術力は現実の現代とほぼ同じ

3. 科学的な物事を扱う「学会」が存在する

4. インターネットを用いた、個人による配信が可能である

5. 多数の個人による証言が行えない状況にある

1と2 , 1と3, 4と5 がそれぞれ矛盾しているように見える。一つひとつ考えてみよう。

「技術がある」のに「信頼性の高いメディアが存在しない」とはどういう状況か。これは、「メディア」というもの自体の信頼性が低いと考えられる。

現実において、「信頼性の高いメディア」と「信頼性の低いメディア」はどのように見分けられているだろうか?
例えばテレビで流されているニュースは、ほとんどの人が「信頼性の高いメディア」と考えている。それは、その放送局が「ほとんどの場合真実を報道している」という前提知識があるためである。
一方、ノストラダムスの大予言や、月刊ムーのような「オカルト的」なものを「信頼性の高いメディア」と考える人はごく一部である。それは、その報道に「相当の誤りが含まれていた」という前提知識があるためである。

また、これには公的教育の貢献もある。公的教育においてテレビのニュースは「真実」だと教えられるが、月刊ムーのようなものは「真実」だとは教えられない。

公的教育の有無は、次の内容にもかかわってくる。

「科学的な物事を扱う「学会」が存在する」のに「信頼性の高いメディアが存在しない」とはどういう状況か。これは、「科学」自体が「信頼性の高いもの」と考えられていない可能性がある。

現実世界においては「科学」=「信頼性がある」の代名詞のように扱われている。それはなぜか。ここにもやはり公的教育の重要性が出てくる。

現実世界においては公的教育において、理科や数学を必ず学ぶ。それを通して、「科学」=「信頼性がある」という意識が醸成される。さらには国家や、大手メディアも科学を前提とした決断や報道を行うのが当たり前である。

また、「科学」というもの自体の特性もある。「科学的」なものと「科学的でない」ものの差はどこにあるか、と考えたことはあるだろうか?17世紀にルネ・デカルトが著書「方法序説」で示した原則が、これを的確に表している。

$$
\begin{array}{l:l}
明瞭判明の規則 & 明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。\\
要素分解 & 解決可能な要素に分解して考察する。  \\
具体から抽象へ & 単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。  \\
総合 & 見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。
\end {array}
$$

こういった方法論によって、科学は事実を積み上げ、信頼できるものになっている。

にもかかわらず、科学が「信頼性の高いもの」として扱われていないのはなぜだろうか。これに関して、次のような仮説を立てた。

1. 「科学」というものが存在しない

2. 「科学」が一部の人々にしか浸透していない

3. 「科学」自体に誤りが多い

1. については、電子機器やラッキービーストのようなロボットが存在する時点で誤りであろう。いうまでもなく、電子機器は科学と数学の結晶であり科学無しにこれらを作ることは絶対に不可能である。

3. についても、科学的方法というものは、「論理」さえ成立していればどのような状況でも使える方法であることを考えれば可能性は薄い。仮に魔法が当たり前の世界だったとしても、それを科学的に分析することは可能なのである。

すると、2. 「科学」が一部の人々にしか浸透していない という推測をするしかない。
その理由としては、やはり「公的教育の欠如」しかないだろう。現実世界においても、科学が一般的に浸透したのは公的教育が充実してからであり、それまでは一部の貴族や物好きの道楽でしかなかった。

さらに、4, 5の状況も加えて考えると、次のような像が浮かび上がってくる:

けものフレンズ3の世界は、
公的教育が欠如 +  インターネットや画像加工技術が発達
=> 何が真実で何が虚偽かを知る方法が無く、だれもが自分に都合の良い情報だけを信じ、科学ですらその一つでしかない

という状況であると考えられる。

また、以下の記事を見てほしい。

ここでは、「突如出現した無人島にレジャー施設を作るというのは不自然である」という、けものフレンズの根幹にかかわる矛盾が提起されている。

しかし、公的教育が欠如し、科学というものの価値が相対化された状況では、環境意識というものもまた相対化される。地球環境問題というものが発覚するには、全地球規模の情報共有や科学的方法の普及が不可欠だからである。
そうした状況であれば、「突如出現した無人島にレジャー施設を作る」という考え方をしても特段不自然ではないかもしれない……と思うが、今のところ説得力に欠けるので、これについてはまた後日考察したい。

科学と教育

さて、ここで気になるのは「なぜ科学に基づく公的教育が欠如しているのか」という点である。

そもそも、科学に基づく公的教育は、どのように始まったのだろうか。前近代においては、教育というものは宗教教育か、家庭教師によるごく一部のエリートによって行われる科学的教育であった。科学的公的教育の広まりについては、啓蒙思想というものが大きく関係している。

「すべての物事は理性で理解できる」「理性はすべての人間が平等に持っている」という考えのもと、おもにヨーロッパの大学においてそれまでの神学中心の教育から科学中心の教育へとカリキュラムが変更されていった。

さらに国民軍隊の編成のためにプロイセン王国を中心として初等教育制度が整備される。この頃はあくまで軍事、言語、政治教育が中心であったが、次第に初等教育には「高等教育のための準備」という機能も期待されるようになり、大学での教育と結びついて科学的教育を取り入れるようになった。

すなわち、科学教育の普及には3つの段階がある。

一部の人々の間での科学勃興 → 大学における科学へのシフト → 初等教育への取り入れ

より深堀りして考察していきたいが、今回はここまでとする。続きはまた今度。

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