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鏡の中で

物心ついたときから、鏡にうつる偽物の自分を見るのが好きだ。

実家の鏡は三面鏡で、右斜め前から見る自分、左斜め前から見る自分で、顔の印象が異なることを知った。
わたしは右目の方が大きい。左目は小さい。生まれた時からずっとだ。
鏡に映る目の前の自分が虚像であることを知ったのは、中学生の時だった。
鏡の中にいる自分と、実際に人から見る自分の顔が異なるなんて不思議だった。
ガラスの奥に映るわたしは、ファンタジーの存在なのである。

鏡チェックをする姿を人に見られるのは嫌いだった。
恥ずかしいのだ。
大して可愛いわけでもないのに、自分の容姿を確認している姿を見られるのは
わたしにとってはすごく恥ずかしくて仕方がなかった。
そんな権利は自分にはないと思っていた。
だから、誰もいないところで、鏡に穴があくのではないかというほど
舐め回すように自分の虚像をみていた。
右から見るほうが優しげだが、左からみると物憂げだ。でも左からみるほうが、目の大きさのバランスがとれる。まぶたが重いので笑うと目が本当になくなる。まつげは長い。涙袋は小さい頃からの自慢で顔のパーツの中での唯一の宝だ。首が細い。だからあごに脂肪がつきやすい。おでこと頬骨が出ているのがエキゾチックで深海魚のようだ。

そんなファンタジーの中にいる自分をじっくりと見つめ、溺愛していた。
でも、ファンタジーばかりに恋い焦がれる自分のことは、嫌いだった。
残念なことに、その嫌いな自分というものが、他でもない本物の自分だ。
愛せなかった。
自分に不満がありすぎて、人を妬んだり羨んだりすることしかできないような自分が本当に醜かった。
まぶたが重くて、にきびはたくさんできる。
顔のコンプレックスで自信がなくなり、ちゃんと笑うことができなくなった。
口元はへの字で本当に可愛くない。
マスクはなんて素晴らしいアイテムだろうと思った。
顔の半分を隠すことができる。
おでこを出したかった。憧れていた。
でもわたしのおでこは深海魚のようなので、
世界におでこを出すのはおこがましいと思った。
わたしのおでこは公害だと思った。

なんて自意識過剰なんだと思う。
今考えてみると、わたしのおでこなんて誰もみてないのに。

写真に映る自分、つまり人からみられている時の自分よりも、
鏡の中虚像の自分のほうがいくぶんか美しく思えた。
まともな顔をしようと、努力するからだと思う。
虚像をみるとき、どうして人はできるだけまともな顔をしようとするのだろう。
そこに映るのは、他でもない偽物なのに。

偽物を愛することしかできない自分を、
一体誰が愛してくれるのだろう。


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