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ターミネーター5はやっぱり最悪

「ターミネーター2」の正統な続編は「ターミネーター:ニュー・フェイト」ということで、「T3」「T4 」「T5」無かったことになってしまった。前回は、「ターミネーター3」について思うことを書いたが、今回は「T4」「T5」について書いてみる。

シリーズでは異色のT4

「審判の日」の後、機械軍と人類の抵抗軍が生き残りをかけた戦いを繰り広げる中で、未来の救世主ジョン・コナーとジョンの誕生の鍵を握るカイル・リースが出会う時代を描いた「Terminator Salvation(T4)」。シリーズの中では、唯一タイムマシンが登場しない作品だ。そして他の作品が、基本的に上映時の時代を中心としたストーリーであるのに対し、T4は未来の時代の物語だ。そうした点からシリーズの中では少し異色だ。そして半分人間・半分機械のマーカス・ライトの存在が、人と機械の違いが何かを考えさせる。

マーカスは人か機械か、味方か敵か。マーカス自身も自分が何者か分からない。そうした展開の中で、マーカスは実は、ジョンをおびき出すようにプログラムされていて、マーカスもそれを知ることとなる。しかしその事実を知ったことでマーカスに人としての心がはっきりと目覚める。マーカスはジョンやカイルを助ける為に機械軍と戦う決意をする。最期には、瀕死の重傷を負ったジョンを救うために自らの心臓の移植を申し出る。

T4は人と機械の違いの描写と名言が良い

そして移植手術の時にマーカスは、

"What is it that makes us human? It's not something you can program. You can't put it into a chip. It's the strength of the human heart. The difference between us and machines."「人とは何か。プログラムやチップでは作れない。心の強さが人を作るのだ。それが俺たちと機械の違いだ」

とつぶやく。

一方、命を救われたジョンは、機械軍との戦いに挑み、 "There is no fate, but what we make."「変えられない運命はない」というターミネーターシリーズのおなじみのフレーズを言って、映画は幕を閉じる。

T4の良さは、機械と人間の違いを考えさせられる場面やメッセージが随所にあることだ。

捕虜を見捨てて機械軍への攻撃を抵抗軍司令部がジョンたちに指示したとき、ジョンは次のように訴えた。

"Command wants us to fight like machines, they want us to make cold, calculated decisions. But we are not machines. And if we behave like them, then what is the point...in winning?"「司令部は私たちに機械のように冷たく打算的に戦うことを求めている。しかし私たちは機械ではない。もし私たちが機械と同じような行動をとるなら、勝つことに何の意味があるんだ」

T4には名言が多い。そして良いヒューマンドラマに出来上がっている。前作までとの整合性もあり、ターミネーターシリーズとして正統な流れの作品といって差し支えない出来だった。「ターミネーター:ニュー・フェイト」が正統な続編だと決めつけなければだが…。

T5はパロディ映画?

続いて上映された「ターミネーター:新起動/ジェニシス(T5)」。ジョンが母であるサラを守る為にカイルを1984年に送り込む時代がどう描かれるか。楽しみにして映画館に足を運んだが、ショックの大きい作品だった。悪い意味でのショックだ。

1984年にカイルが時間移動し、懐かしい「ターミネーター」の一作目の場面となる。しかし懐かしい思いに浸っていたのはわずか。T1とは別の展開になっていく。私は「何これ?」と戸惑いながら見続けたが、さらに、サラがカイルを助け、カイルに対し「あなたはカイル。ジョンから送られたんでしょ。ジョンは私の息子」と言う場面となる。何だこれ!?「T5はT1のパロディ映画だったの? それともこれは、前座の映画で本編はこの後に始まるのかな?」。私の頭は混乱した。

さらにストーリーが進んでいくのを観ながら、私は「でも製作者はパロディのつもりで作ったのではなさそうだな」と理解し始めた。製作者はいたって真面目に創っているつもりのようだ。たとえストーリーがめちゃくちゃでも。

結局「なんじゃこれ!?」と思いながら見続け映画は終わった。感動よりも失望がはるかに上回った。

それでもターミネーターは好きなので、その後、DVDでも観た。しかし、やはり酷い映画だという印象だった。

さらに最近、「ターミネーター:ニュー・フェイト」を観た後、久しぶりにあらためてAmazon Primeで観た。やはり酷い映画だ。たしかに映画は「ジェニシス(創世記)」であり、物語のはじまりだ。とはいえ、何でもありのストーリー展開は、何も無いと同じだ。

ターミネーターの原点を破壊したT5

往年のターミネーターファンからすると、ターミネーターシリーズの原点が書き替えられるというのは、出発点が別のもの、好きだったストーリーが違うものとなってしまった訳だから、ファン感情を根っこから引き抜かれた気分だ。

ターミネーターシリーズの核心的メッセージの一つは、"the future is not set."「未来は決まっていない」である。このセリフはT1でもT2 でも出てくる。T3の冒頭は "The future has not been written."「未来は書かれていない」というジョンのセリフから始まる。悲観的な未来が予定されていたとしても、それを変えることはできるという希望が、それまでは一貫して描かれていた。しかしT5は、「過去は決まっていない」という過去を書き替えるストーリーだ。それはありだとしても、時間の行き来は自由。未来も過去も書き替え放題というストーリーには、何のメッセージ性もドラマもない。

T5は『ターミネーター』と『猿の惑星:創世記の』パロディだった

あらためて観ても、T5は観るに堪えない駄作だ。しかし、これをパロディ映画と思えば別だ。副タイトルは「ジェニシス(創世記)」だから「猿の惑星:創世記(ジェニシス)」に通じる。そういえば「猿の惑星:創世紀」と同じようにサンフランシスコを舞台としてゴールデンゲートブリッジをバスで抜けようとしたところ、バスがひっくり返って海に落ちそうになる。この場面はまさに「猿の惑星:創世紀」のパロディだ。

「ターミネーター:ジェニシス」。それは主タイトルの「ターミネーター(1)」と副タイトルの「(猿の惑星:)ジェニシス」の二つの映画を基にしたパロディ映画となっていることを意味しているのかもしれない。そう思えば納得できるし、それなりに面白い映画だとも言えそうだ。制作者はそのつもりはなく、真面目な映画を作ったつもりだったとしても、結果的にはパロディだ。制作者の意図と結果が変わることはある。T5はそんな映画と言えそうだ。

ターミネーターシリーズと思ってみたら耐えがたいほど酷い映画だ。しかしT5はパロディ映画であり、未来は決まっていないとか、希望の未来を作ろうとか、人間と機械の違いは何か、などという高尚なメッセージ性やヒューマンドラマなど求めないで、タイムマシーンで未来と過去を行き来するSFパロディ映画と思えば、それなりに楽しめるかもしれない。

「ターミネーター:ニュー・フェイト」が正統な続編とされて良かったこと。それは何よりも、「T5」が無いことになったことだ。T3、T4が正統でなくなったのは少し残念ではあるが・・・。


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