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とてつもなく合わない子とシェアアパートメントをした5ヶ月のこと

このnoteを書き終えた今もなお、私はこの記事を公開すべきかどうか迷っている。それは一重に、ADHD当事者のかた、その関係者のかたを傷つけたくないから。と同時にこれは私の個人的なnoteで、かつ自分の中にある恥ずべき感情、常に向き合わなくてはいけない自分の中にある嫌な部分を記しておきたいと思っただけなのだ。私はADHDなどの分野についてはど素人だが、症状や程度が人それぞれなのは承知している。だからこの記事で触れているその症状がADHDのひと全てに当てはまるとは思わないで欲しい。

これはただ、デンマークという知らない地で、思いがけずYellow Feverに分類できるような、私が一番敬遠するであろう男の子と、1DKの狭いアパートメントを共有した私の日記。
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コペンハーゲンで部屋を探すのは本当に面倒である。最初に引っ越してきたときに学生寮が抽選であたったのも、2つ目の部屋がめっちゃスムーズに決まったのも(シェアハウスのオーナーが偶然連絡をくれた)私が運が良かったからである。ロンドンでフィールドワークをしていた去年の秋、コペンでの新しい部屋を探さなくてはならず、SNSで連絡をくれたデンマーク人の20代半ば男の子と私はシェアアパートメントをすることに決めた。立地の良さ、値段のお手頃さ、アパートの綺麗さが決め手だったのと、部屋探しに労力をかけたくなかったからだ。ちなみにこの立地でこの値段というと、デンマークの友人は「すごい!ラッキーだね!」皆口を揃えていう。

私の部屋にはドアがあった。しかしそのドアはとても薄く、壁の向こうで彼が布団がこすれる音が聞こえるほどだ。私が引っ越すとき、パーテンションの購入をお願いした。彼はパーテーションの向こうにあるリビングダイニングで生活しており、そこを通らないとキッチンには行けない仕組みだ。日本だと友達でもカップルでも無い男女がそんな環境で住むのはなかなか無いと思うが、コペンハーゲンだとそういうケースも結構多い。思えば契約書を結ぶとき、彼は手書きでサインができないと言っていた。その時はあまり深く考えなかったが、思えばそれが、彼がADHDやディスレクシアを抱えていることに気づくべき最初の瞬間だったのかもしれない。

ただ私はそんなことを考えもしなかった。そして引っ越してからすぐ、彼の言動に、行動に、イライラが募っていった。

共用スペースの掃除をしない。リサイクルができない。服が脱ぎっぱなしに置いてある。電気がつけっぱなし(電気代は折半)。人が寝ているのに朝から大音量で音楽を流したり歌ったりする。真夜中でもめっちゃ大きな声で独り言を言ったり笑ったりする。話したことを覚えていない。すぐ分かってしまう嘘をつく。約束を守ってくれない。自分がしたいことはすぐにしないと気が済まない(例えば私が包丁で何かを切っていて、明らかにすぐ終わるものでも、その上にある戸棚を開けたければ何も言わずにそこに来て戸棚を使い出し、結果的に私がそこをどかなくてはならない等)。
なかでも、彼がとある手続きをしなかったために私のデンマークの住民票登録が遅れ、それを何度もリマインドしてもなかなかやってくれず、私のクレジットカードが止まった時はもう怒りを通り越してどうしていいかわからなかったほどだ(デンマークは超クレジット社会なためクレジットカードが使えないとかなり面倒である)。そしてその状況で「てことは次月の家賃を今週払えないってこと?」と彼が言った時は、心が怒り過ぎてもうなんと反応していいかわからなかった。でも何かを言うたびに「今やろうと思っていたところ!」とか「分かってるって!」と少し怒った顔で言われることに私はなんだか疲れてしまい&心を痛めてしまい、目を瞑ることも多くなっていった。共同生活を初めて1ヶ月経ち、ちょうど私の怒りが溜まっていった時、不眠症だといつか言っていた彼が23時頃大きな声で電話をしていて私はそのせいで目覚めた。私たちは契約書で、夜21時以降は静かにするという約束をしていた。私がトイレに行こうとドアを開けると、日本語が少し話せる彼が友達に自慢をしたいのか、「おやすみ〜」と日本語で言ってきた。その瞬間、私の堪忍の緒は切れた。

「電話は終わったの?今何時だと思ってる?あなたの声で起きたんだけど?契約書で21時以降は静かにするって約束したよね?」

私の口調は相当怖かったと思う。英語であんなに人に怒るのはあれが最初で最後じゃないだろうか。日本語で人に向かってあんなに怒ったのも、いつが最後か思い出せないくらいだ。彼は部屋に戻る私の背中に向かって謝った。次の日、彼は先生に怒られた生徒のような顔と声で「本当にごめんなさい。もうしないから。」と言ってきた。あの時の彼の悲しそうな顔を私は今も覚えている。彼がADHDと分かっていろいろ調べるうちに、怒るのは一番良くないことと知り、今でも申し訳ない気持ちでいる。(ただそれから間も無くして彼の夜中電話やイヤホンなしでのTV視聴はリスタートした。もちろん毎日では無いが。でもそれからは、毎日新鮮な気持ちで「音小さくしてくれる?」や「もう寝るから電話やめてくれる?」と言えるようになった。)

彼が1ヶ月ほど旅行でいない間、クラスメイトで一番仲良しの子が彼の代わりにこの狭いフラットに一緒に住んでいた。仲良しの友達と過ごした1ヶ月は、コペンで一番楽しかったことの1つに入る。彼に限らず誰とでもこんな狭い空間で一緒に暮らすのは大変なのでは、という私の仮説は打ち消された。

私が彼がADHDを持っていることを疑い始めたのは、彼が私にとある書類の印刷をお願いしてきた時だ。何気なくGoogle Translationをつかってデンマーク語の意味を調べてみると、それは何かしらの障害を持った生徒用の、大学へのサポート依頼の書類だった。その時、彼が字を書けないと言っていたことを思い出した。そうか、彼はディスレクシアなのか。ディスレクシアについて調べると、コミュニケーション上の問題を持っている人も多いことを知った。その頃から、私は彼にイライラすることがあっても、それが彼の怠慢からくるものではないと知り、自分の心を落ち着けられるようになった。そしてそれから1ヶ月くらいした後、私はテーブルの上に無造作に置かれた薬に気付いた。引っ越してきてからすぐ、彼がほぼ毎日薬を飲んでいるのは知っていた。調べてみると、アトモキセチン(日本名:ストラテラ) というその薬は、ADHDの人に処方される薬だということが分かった。

その時、彼の言動や行動の全てがつながった。それからというものの、どうしても我慢できないことは言い、特にこちらが我慢すれば問題ないことは言わず、私をイライラさせるその言動や行動が、彼の性格からきているものではないと知った私の気持ちは、本当に穏やかになった。

ただ私はどうしても許せないことが一つあった。それは彼が人を、特に日本人を、下に見ようとするクセがあることだった。彼は日本が好きだった。日本で3ヶ月働いていたこともある。日本語もそこそこ話せる(英語もペラペラの彼は、言語能力にかなり長けていると思う、彼のアニメに触発され過ぎた日本語はイラっとすることが多かったので、私は彼と日本語でコミュニケーションを取ることは基本避けていたけれど)。でも彼は「日本人はXXだからね」とよく日本人に関するネガティブなステレオタイプを口にした。そして彼の日本の友人について話す時、全く聞いていないのに彼らの英語力レベルに常に言及した。「友達のXXは、英語は中級で。まあ旅行には困らないとは思うけど。でも大学で英文学専攻してたのにあのレベルってあり得ないと思うんだけど」といった具合だ。日本にいるとポピュラーになれると言ったのも、日本女性はsubmissive(従順)と言ったのも、(だからなのか)日本の女の子と付き合いたいと言ったのも、私を嫌な気持ちにさせた。また私に対して謎なマウンティングを取ってくることも多かった。彼の中では「部屋探しが困難な街、コペンハーゲンで私を救った自分」ということで感謝をして欲しいようだった。日本人が部屋を探している情報を聞きつけては私に共有してきた。最初はありがとうと言ったが、その話が2度、3度、4度と続くうちに「私の場合は、1軒目も2軒目も苦労なく探せたんだけどね」と返すようになった。そう返すたび、彼はなんだか悲しそうだった。

ただ彼がADHDがあると分かってから、彼の学生時代について私は考え始めた。高校時代はあまり友達がいなかったと彼はいつか言っていた。彼が日本を見下すのは周りから疎外され、自己肯定感が下がってしまった彼の経験の反動なのでは、と思ったからだ。英語という彼が自信を持てる能力。日本は、その能力が遺憾無く発揮できる場所だからだ。もちろんだからといって、彼の人を小馬鹿にするような言動や行動を私が個人的に許せるかというとそうではない。ただ、週に1回掃除をし(彼も月1くらいでは掃除をしていたと思う)、大学に毎日行き(彼はサボることも多かった)、毎日いろいろな料理をして楽しんでいる(彼は本当に毎晩ご飯とミックス野菜とオーブンで焼いた肉を食べていた。調べたら、献立を考えたり料理することが大変なADHDの人も多いらしい)私の何気ない行動自体が、彼にとってはマウンティングに感じてしまっていたのかもしれない。

引っ越した当初を思い出す。もし引っ越す前や直後に、彼が私にADHDであることを打ち明けていたら、私はこのままこの家にいただろうか。そう思った時、自分の心の狭さと矛盾に気付いた。インクルーシブ教育、インクルーシブな社会を目指そう!と思っている私。今まで、教師と生徒という関係、ファシリテーターと参加者という関係で、ADHDのかたと接したことはある。ただここまで一緒に生活をするのは初めてだった。そして、彼のせいではないADHDが創り出す状況を、完全に鬱陶しく思ってしまう自分がいた。とくにコロナによる外出制限時は、お互い家にいることが(当たり前)だが多かったため、おそらく彼も私のことにイライラしていただろうし、私も彼にイライラすることもあった。

彼が私に自分がADHDであることを打ち明けてくれていたら、私はどう感じていただろうか。でも彼がそれをしなかったのは、それによって私が見方を変えたりするのが嫌だったからだろう。もし「自分はADHDでXXみたいなことができないからもし気になったことがあったら言って欲しい」と彼が言っていたら、私と彼の関係はもっと良好だったのだろうか。私は彼のことをもっと好きになっていただろうか。

ちなみに私は一回怒ってしまって以降、一度も声を荒げることはなかった。夕食の時間が合えば仲良くたわいもない話をし、私が出ていく時はとても寂しがっていた。彼が電話で「私との生活はとても楽だったし楽しかった。もうすぐ出ていっちゃうのが淋しいんだよ」との友人に言っていたのを盗み聞き(というかドアが薄過ぎて盗まなくても聞こえてくる)したこともある。彼は、基本的に本当に優しい子だった。家族思いで、友達思いの、とても心が優しい子だった。(ちなみに、私は諸事情により約束していた時期より先に家を出ることになった。私の次に住む予定だった子が突然住む場所がなくなり、いきなり家にやってくることになり、それなら、と私がところてん方式で出て行った。)

でも私は、誤解を恐れずに言えば、今後彼と友達でいたいとは思っていない。それは彼がADHDだからでは全くなく、彼が日本女性をsubmissiveといい、日本を小馬鹿にするクセがあったからだ。でもそれは、すでに書いたように、彼の幼少期の経験からくるもの、社会がそうさせたものなのかもしれない。そう考えると、自分の心の狭さと冷酷さになんとも言えなくなったりもしている。

何か答えが欲しくてこの日記を書いているわけではない。ただ今後教育について考える時、自分がこう考えたこと、自分の闇の部分みたいなことをきちんと残しておきたいと思って、私はこの日記を書いた。冒頭にも書いたが、この日記が誰かを傷づけることがないことを、私は心から願っている。

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