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研究者としての罪悪感

「フィールドワークで何が一番大変だった?」と聞かれて真っ先にいつも答えているのは「ボランティアとしての役割と研究者としての役割を同時に全うしたこと」である。

私の研究対象は、ロンドンに到着したばかりの移民、難民の子どもたちだった。経済的に困窮していたり、家族との関係性がよくなかったり、重労働をしていたり。そんな難しい状況に置かれつつ、学校へのアクセスがまだ認められていない子どもたち。私はそのプログラムで、お昼ご飯を一緒につくるボランティアとして、唯一毎日来るボランティアだった。日中はセンターしか行く場所がない子どもたちにとって、私は、まちがえなく、かれらの家族以外で、最も頻繁に会う大人であった。もちろん、大学の倫理規定として、私は真っ先に自分が研究者であることは伝えていた。インタビューをするときは、子どもに許可をとってから、インタビューを録音させてもらっていた。でも、それ以上に、私はかれらにとって、毎日センターにいる、話を聞いてくれる大人だった。だから、私のボランティアとして、研究者としての葛藤は、いつもふとした瞬間にやってきた。

ロンドンに到着した日のことを聞いて、かれらの目に涙がたまるのが見えた瞬間、私はそれ以上の質問をやめた。授業中に急に泣き出した子を見て「ああ面白い状況だ」と、冷静にフィールドノートを書く自分もいた。かれらが私に悩みを打ち明けてくれたとき、それをただ受け止めて掘り下げるのではなく、自然に励ます方向に切り替えたときもある。自分の知的好奇心をうめるために、かれらを使っているような気がして、罪悪感に苛まれることも多かった。

フィールドワークから戻り、自分のデータと向き合ったとき、結果的に私はボランティアとしての自分の役割を優先してきたんだなと実感した。教授に「話を聞いてもらいたい人もいるから相手が嫌というまでは話を深堀すべき」とフィールドワーク中のSkypeミーティングで言われたことを思い出した。確かに一理ある。「弱い立場に置かれた人たちは、研究者の人たちに、対等に意見を扱ってもらうことを歓迎し、それは彼らの自尊心につながる」という論文を読んだこともある。でも、私には、どうしてもそれができなかった。目の前にいる、私を信頼してくれる子たちを、悲しませることだけは、トラウマを思い出させるようなことだけは、避けたかったからである。なにより、彼らが日々出会う大人の代表として、かれらの毎日が楽しくなることを何より願っていた。そして、きっと彼らが私の研究に協力してくれたのは、私に恩を感じてくれていたからだと思う。最終日「次から来るボランティアが嫌な人だったらどうすればいいの?」と聞いてきた子どもの目を見て、私はそれを確信した。ある意味、私と彼らの間に力関係、つまり「かれらは私の研究に協力しなくてはならない」というある意味不健康な関係性ができてしまっていたのである。

フィールドの地としてこの団体を選んだこと、ボランティアとしてこの団体に携わったことに後悔はしていない。というか、それがこの団体で研究できる唯一の方法だったからだ。でも、自分が集めてきたデータをまとめながら、もう一度フィールドワークをするチャンスがあれば、もっと上手くできるだろうか、と思いを馳せることがある。もっと深掘りできただろうか。もっと「面白い」データが集められただろうか。でもきっと、私はまた同じ選択をするのかもしれない。研究者としてでなく、その時置かれている立場として、自分が正しいと思う方向を取るんじゃないかと思っている。そういう意味では、私は研究者に向いていないのかもしれない(なる気もないのだけれど)。

最終日。まだ英語もままらないスペインから来た15歳の女の子が、私にこの画面を見せてくれた。

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ロンドンにやってきて、半年間の公教育にアクセスできない期間を経て、11月から中学校に行った彼女。彼女の新しい毎日が楽しい日々であるよう、願うばかりである。

つづく(2/3)



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