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【虎に翼 感想】第102話 法律は人間が作るもの


法律は結局、人間が作るものだ。その時どきで議論を尽くし、最善のものを作り上げてきたのだと信じたい。

昭和22年の民法改正のときもそうだった。
あのとき寅子は、“基本的に夫の姓を名乗る” となっていた民法改正草案の第6案を読んで感慨深くなってしまい、久藤に「思ったより謙虚だ」と言われてしまった。
戦前は基本的に "夫の名字"、そこから戦後、"夫婦どちらかの名字"、というところまでは持ってくることができた。

令和となった今、そこからかなりの年月が経っている。
轟の言うように振り返ることの数々を経て、そこに至るまでの時間はもう費やされたのではないか。私が生きている間は分からないが、いずれは別姓も選択できるようになるのだろうとは思っている。


5人の寅子は、すべて本当の寅子だ。どの名字であっても、寅子の本質は変わらない。
そうなると、星姓になってもよいではないかとなる。それも一つの考えだ。名字が変わったとしても寅子は寅子なのだから。

だが、別の見方をすると、そもそも別姓でもよいことにもなる。結婚して同じ名字にしてもしなくても、夫婦と、夫、妻それぞれの本質は変わらないし、家族への愛情が薄らぐわけでもない。

民法改正の最後の会議のとき、寅子はこう話していた。
「名字ひとつで何もかも変わるだなんて、悲しすぎます。私たちは、多くのものを失ったのですから」
「私は、娘が結婚して夫の名字でも佐田の名字であっても、私や家族への愛が変わるとは思わない」と。

名字など、大した問題ではないはずだった。


轟も、人間が作った法律の限界を感じ、苦しんでいる。
同性婚が認められていない以上、法的に保障されるものは一つもない。
権利を持たない者からすれば、“本質は変わらない” とか、“愛情は薄れない” などと言っても空虚なものでしかないのだ。

寅子が轟に ”権利を持っている” ことを見せつけたのは、今回が初めてではない。
寅子と花岡は想いを交わしていた。最終的に別れを決断したが、二人は結婚したかもしれなかった。
轟は、自分が想いを寄せる(その自覚すらなかったのだが)花岡と結ばれる法的権利を持っている寅子を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。
そして、今になってその想いを知らされた寅子もどんな気持ちでいるか……。

憲法第14条の前で穏やかに話す轟が切ない。”何が平等だ” と叫びたいはずだ。自分に平等が与えられないならと、やけになって周りを傷つける人間になってもおかしくなかった。
踏ん張れたのは、よねや時雄のように自分の思いを受け止めてくれる人たちとの関わりのおかげだ。だから轟も、周りの人の思いを受け止めようとする。彼から見れば妬ましいくらいの寅子の気持ちも静かに受け止めていた。
その姿は、法曹者として今ある憲法第14条を精一杯、大事にしているかのようでもあった。

そして、過去を振り返ったときに心から幸せだったと言える人生にするための、轟の静かな抗いのようにも思えてならなかった。

人間が作った法律である以上、すべての人が納得のいくものにならないのは仕方のないことだ。現状の法律の中で決めるしかない。
優未も自分なりに考えをめぐらせていたようである。


優未は航一に何を話し、航一は何に「なるほど」となったのだろうか。

家族の前で、結婚したら自分が佐田姓になると、航一は宣言した。寅子にも相談なしの宣言は、いささか気がかりなことである。

航一の言う、子どもたちも大きくなっている、法的な親族関係は変わらないなどの説明はごもっともではあるが、百合が納得できるはずがない。だから猛反対に遭う。彼女からしたら当然のことでしかない。

航一が佐田姓になったからといって、星家が途絶えるわけではない。
星航一筆頭者の戸籍から航一が抜けるだけだから、朋一とのどかは、寅子と養子縁組しないかぎり星姓のままだ。

百合からしたら、亡き夫である朋彦だけでなく前妻からも航一と孫たちを託され、家を守ってきた。その航一が星姓でなくなるなど、夫に顔向けできないことなのだ。

まだ戦後10年、日本国憲法の施行と民法改正から8年しか経っていない。
個人を尊重しろと言われても、急に価値観を変えられない人たちの苦しみを置いていきたくはない。

人間が作った法律を、さまざまな理由で受け入れられない人たちがいる。


「虎に翼」 8/20 より

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